松原壮志朗:Awake or Asleep |
展覧会 |
執筆: カロンズネット編集3 |
公開日: 2013年 5月 16日 |
「天国のような、地獄」(=現実)/「地獄のような、天国」(=イメージ)。表裏をなす二つの世界の往還を促すように、松原壮志朗の作り出す空間には、失われた20年と揶揄される時代に、青年期を生きるこの世代に特有の、激しくも、儚い情熱のようなものがいつも横たわっていました。 多摩美術大学で油画を専攻するも、2005年の卒業制作では、一部屋を占領してド派手なインスタレーション(ベニヤ合板でできた空虚な張りぼてのランボルギーニが壁に激突しているという)を発表するなど、松原壮志朗は在学時代から、型破りのアーティストとして注目される存在でした。デビュー後の活動では平面作品はもちろん、様々な素材のスカルプチュア、レディメイドのミクストメディアなど、奔放で多元的なその表現手法を見て、マーティン・キッペンバーガーの再来をささやく声も聞かれたほどです。しかし作品形態に人形劇を取り入れ始める2009年頃には、もはやそれまでの参照点が無意味なほどに、松原は自らの表現世界を躊躇なく、自由に、解き放っていきます。 そして、人形劇作品とほぼ同時期に取り組み始めたのが、木版画です。人形劇と木版画。一見分裂しているように見える二つの技法には、実は意外な共通点を見いだすことが出来ます。それは「主体の消去」ではないでしょうか。木版において版を彫り出し支持体へ印刷すること、そして人形劇において脚本を作り、また練習をすることは、言うまでもなく、情動にかられ即興的に振る舞おうとする主体を制御するプロセスです。これは、松原が00年代後半のベルリンのムーヴメント、つまりジョナサン・メーゼ(ヨナタン・メーテ)や、アンドレ・ブッツァーが醸し出していた、いわゆる「ノイローゼのリアリズム」に敏感に反応しつつも、日本的な「小さな物語」への安易な回帰とはきっぱりと決別するべく、直感的に嗅ぎ分けた、戦略的な「方向性の選択」と言えるでしょう。 今回の個展で、前述の木版とそれを基調にしたペインティング、写真のミクストメディアなど、より多元的に展開された作品群を観れば、(さながら「独りグループ展」の様相ではあるものの)その「方向性の選択」がしっかりと確認できます。「眠り・夢」という穏やかなテーマが全体に小気味よく行き渡っていて、これまで見られた、暗く激しい、諦めにも似たメランコリーは影を潜めています。作品によっては飄々としてコミカルですらあり、また、ところどころに抽象的な形象を用いているせいか、ミニマリズムの側面も感じさせますが、決してコンセプチュアルを偽装しているのではなく、むしろ全体から受ける印象は、以前にも増してエモーショナルです。 コンセプチュアルであること/スポンテニアスであること。あるいは、アーカイヴァルであること/言語化されないこと、と言い換えられるかもしれない、この二項背反にどう向き合うか。その問い無くして、今日のアートは成立しません。現在進行形のアートにとっての、避けがたいアポリアに対するひとつの答え(プロセス)として、松原壮志朗の久しぶりの個展を体感していただければ幸いです。 [作家プロフィール] 全文提供:スプラウト・キュレーション 会期:2013年5月11日(土)~2013年6月1日(土) 時間:12:00 - 19:00 休日:日・月・祝 会場:スプラウト・キュレーション |
最終更新 2013年 5月 11日 |