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『フクシマからの風 第一章 喪失あるいは螢』加藤鉄監督インタビュー
特集
執筆: 田中 みずき   
公開日: 2012年 7月 22日

獏原人村(福島県川内村)
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菅野昌基さんと妻のとし子さん(福島県飯館村)
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獏原人村の風見正博さん(通称マサイさん:福島県川内村)
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  7月28日(土)からポレポレ東中野(東京都中野区)で公開されるドキュメンタリー映画「フクシマからの風 第一章 喪失あるいは螢」(2012年/HDV/100分/16:9/カラー、参考サイト http://fukushima.xrea.jp/)の加藤鉄監督にインタビューを行った。

  本作は、昨年の震災後、高汚染地域とされた福島県飯舘村と川内村で撮影された。出てくるのは、酪農を続ける人や、ドブロクづくりをするお爺さん。あるいは、山菜と薬草の研究をしている仙人のような人物や、山奥で農や鶏を飼いながら理想郷づくりを目指す獏原人村(ばくげんじんむら)の住人であり、放射線量を測り続け、「満月祭」を催す人。また、飯舘村で地球の鏡のような田んぼを見ている女性などである。
  何もかもが変わったあの日を経た日常の中で、撮影されたものが何だったのか、監督に伺った。


― 監督の出身は、どちらですか?

加藤監督: 生まれたのは、東京です。小学校3年生位まで居て、その後、静岡県に移りました。だから、育ちは静岡ですね。それで、また東京に出てから、10年位前に青森県に移動して、農作等をしていました。

― その、「青森への移住」というのは、前作で撮った、核燃料サイクル施設のある青森県・六ヶ所村のドキュメンタリー映画『田神有楽』(2003年、113分)の影響ですか?

加藤監督: そうです。前作は、十数年前、1994年頃かな、青森県で撮影をしていて、その後、東京でプロモーションなどもしていたのですが、思うところがあって青森に戻りました。

― 青森に、惹かれたものがあったのですね。東京で生まれ、静岡育ちということですが、前作では、どのようなきっかけで青森に行こうと思われたのですか?

加藤監督: 撮影を決めたのは、現地で出会った小泉金吾さんの影響が強いかなあ。小泉さんは、今まで出会ったどんな人とも違う雰囲気を持っていて。それで、何回かお話しを聴きにいくうちに、撮ってみたいと思うようになったんです。

― 小泉さんは、『田神有楽』でも大きな存在感を持つ、皆が去った土地で農業を続けているかたですね。初めに、小泉さんに出会っていて、それから撮影をすることに決めたのでしょうか。

加藤監督: 一番はじめは、当時六ヶ所村でどういうことが始まっているのか、ただ自分の目で見たかっただけなんです。
六ヶ所村は、当時、核燃料サイクル施設建設が進んでいて、1995年の4月にフランスから高レベル放射能廃棄物が初搬入されるという時期でした。その時、単独で六ヶ所村に行ってみたんです。村のかたが、公民館で反対集会をしていたりして、誰かが記録をしておかなければと思ってはいたのですが、個人的にはただ起きていることを撮影していくのも違うと感じました。2、3回通ううちに、「ほかの人は立ち退いたのに、まだ開発用地に残っている、話好きのお爺さんがいる」という話を聞いて、訪ねたんです。
「開発用地」というのは、戦後、政府の立てた大規模な開発計画用の土地として農民が移転させられ、買い上げられていた場所です。しかし開発が失敗し、田畑は大変荒れていました。その地域に、核燃料サイクル施設を作るという動きが生まれてしまったんです。

― その辺り、『聞き書き 小泉金吾 われ一粒の籾なれど』(加藤鉄編著)※1でも書かれていらして、流れを知って驚きました。背景を知って作品を観ると、また見方が変わって、小泉さんの言葉が孕んでいるものを推し量るきっかけになりました。
小泉さんは、どんな印象だったのでしょう。


加藤監督: 訪れると、家族と暮しながら強烈に話しまくる小泉さんがいました。3,4時間位、ずっと話をしてくれたんです。でも、当時は、こちらが訛りに慣れていなくて半分くらい内容がわからない(笑)。だんだん、小泉さんの語りも、私を糾弾しているようになるし(笑)。
それでも、話を聴きながら、「こんなに考えて、本気で怒っている人が居るんだなぁ」と圧倒されました。すごく強烈な体験でしたね。
ただ、当初は、撮影をすると決めていたわけではなくて、ひたすら話を聴くというようなことをやっていたんです。小泉さんに出会って、もっともっと話を聴いてみたいと思うようになりました。とにかく、小泉さんは記憶力もすごかったんですよ。昔からのこととか、子供の頃の話とか、枝葉末節の色んなエピソードを交えて話してくれるのです。そんな中で、小泉さんを縦糸にして、小泉さんを通じて現地の様子を伝えられるのではないかと思うようになったんですよね。それも、出会ってから1年位してからです(笑)。

― それまでは、別のお仕事をして暮していらしたんですか?

加藤監督: 昔から、ドラマの方をやっていたんです。そのうちに、自分たちで脚本を書いて、資金を集めて撮っていくというインディーズの仕事をやり始めていました。その中で、全くのフィクションの物語を書いていくという作品から、セミドキュメンタリーというような、実話とフィクションを織り交ぜた作品へ移っていって。そこからドキュメンタリーに興味を持つようになりました。

― なるほど。ドキュメンタリーを撮るかたって、どんなきっかけで撮り始めるのだろうというのが昔から疑問だったのです。何か、どうしても伝えたいことがあって撮り始めるのか、映像に関っていて気付いたらドキュメンタリーに向っていたのか、とか。

加藤監督: 僕は、ドキュメンタリーへの関りかたが、ほかのドキュメンタリー監督とは違うのかも知れないと思うことがあります。物事を撮るというより、何か、「この人と関りたい」という魅力的な人間に出会わないと、始める気にならないんです。自分の中で予めテーマを持って、問題を提示して…といった風にして現場の中に入っていくのではなくて、現地の人の話を聴いて、その人を通じて観えて来るものを撮りたいというのがあるんですね。だから、自分の中には何も無いように思うこともありますね(笑)。

― 人がきっかけで撮り始めるんですね。
前作の後、小泉さんと出会ったことをきっかけに、青森でずっと農業をしていらっしゃったそうですが…


加藤監督: いやぁ、昔から、ちょっと、農業志向というのか―東京の外れの五日市の奥で、仲間と畑を借りて農業の真似事をしていたりして、農的生活をすることへの憧れはあったんです。それで、小泉さんと出会って、青森のほうで土地があれば「半農半映(画)」が可能か、思い切って農業をしてみても良いのでは、と思いました。結局、六ヶ所村の隣の、さらに隣の村で、六ヶ所村から30km位離れたところに土地を求めて、山暮らし生活に入ってしまい、それが10年位続いたんですよね。
わけのわからない流れですけどね(笑)。

― 農作業をしていて10年経って、またドキュメンタリー映画を撮ろうと思ったのは何故ですか?
前作で六ヶ所村の映画を作っていた上で、昨年の震災で原発の問題が起きたからなのでしょうか。


加藤監督: そうですね…、それもあるのですが、震災の前の冬頃に、「六ヶ所みらい映画プロジェクト」というところから、声がかかっていたんです。写真家の島田恵さんというかたが企画と監督をする計画があって、撮影を依頼される形でした。この島田さんは、六ヶ所村を20年位、断続的に撮り続けていて、震災の前から、青森で核燃料基地に反対しているお年寄りなどを記録に残しておけないかと活動をしていた女性です。計画が具体的に動き始めたのが昨年の2月位で、3月に震災が起きました。それで、島田さんと、私と、福島県の川内村を良く知っているもう一人のスタッフとの3人で、「とにかく福島に行ってみよう」ということになって。3人で3日位、強行軍で、撮影やら運転やらを兼ねて現地に行きました。
それが、そもそもの始まりですね。当初は島田さんが青森で当初からの企画を続けて、番外編のような感じで私が福島のほうを撮るという風に進めていました。ただ、すぐには動き出せなかったりもしたんですが…。計画も次第に変わっていって、今は、彼女のほうも福島関連のドキュメンタリーを制作しています。秋に完成するようですね。

― 「すぐには動き出せなかった」というのは?

加藤監督: それは…やっぱり、福島に行った3日間で、どういう人に出会えるのかもわからなかったからですね。さっきも話しましたが、問題追求から映画を撮るというより、人との出会いから撮影が始まるというスタイルでドキュメンタリーを撮りたいんです。ただ、自分としては、川内村の獏原人村で音楽のお祭りなどをしているマサイさんに会いたいというのは初めからありました。自分も昔から農的生活に興味があったので、農業共同体というようなものを早くから実現した人として名前を知っていたんです。それで、3日間の強行取材に入れてもらって。
あとは、撮影当時は、色々な問題も進行形で、真正面からその問題を取り上げることを躊躇していた部分もあったと思います。どういう視点からその問題をとらえていくのかということも皆目検討もつかない状態で。それで、なかなか、踏み切れないものもありました。
ただ、実際に行って、川内村のマサイさんに会ってみたら、思っていたよりずっと気さくな人で、魅力を感じたりして。ほかの人たちも、それぞれ自分の個性を持っていて、頑固にやっている人が多かったので(笑)、やはり気になりました。帰ってきてからも自分の中に彼らの姿がずっとあったんです。

― 強行取材は、どのようなものだったのでしょう?

加藤監督: もう、お金もないし、行動力とかも意気ごみだけでいくようなメンバーだったので、とにかく肉体的にも、頭の中も、鉛を埋め込まれたように疲れました(笑)。
最後に出てきた女性だけは、強行取材の時ではなく、後に出会ったかたでした。映画が好きなかたでドラマの話なんかで意気投合しちゃって、話をしているうちに、夫を亡くして、1週間に1回位、彼が遺した田に戻ってどうにかしていきたいというのを聴いて、だったら記録に残しておきたいと思って。
出てくる人は皆、自然に向き合って暮している人が多いわけですけど、なんだか、共通の繋がりを持ったような部分がありました。通奏低音という感じですね。それで、すんなりとまとまる形になりました。

― 「すんなり」というと?

加藤監督: 前作の時は4年も撮影をしていて、どの場面を使うのかとか、一度仕上げたものの上映時間が長すぎるとか、紆余曲折あって編集なども苦労したんです(笑)。
今回は、出会った順で良いという確信のようなものがあって、それが疑問を感じる所もなく次々にまとまっていったんですよね。まあ、一緒に作業してくれた編集の人間とかは苦労しただろうけど(笑)。

― その3日間の取材の後、また撮影に向かわれたんですね。

加藤監督: そうです。取材の3日間で撮った映像は、ごく一部です。山菜採りのお爺さんとかの前半部分はそうかな。

― 撮影は、どの位の期間、行っていたのでしょうか。

加藤監督: 5月位から始まって、半年位かなぁ。

― 今回の作品では、ドブロクを作っているお爺さんが、人の視線を気にせずに猫の尻尾を持って遊ぶ様子を遠くから撮ったシーンなどがあって、印象的でした。狙って撮れるものでも無かったかと思われますが、一人のかたを取材している時は、ずっとカメラを廻していたのですか?

加藤監督: そうではありませんが、特にドブロクのお爺さんなんかの場合は、撮影時に「撮るぞ」という区切りなどはつけなかったですね。初めに、ドキュメンタリーの撮影でカメラを廻すという説明は1回しますけれど、その後は、カメラを横に据えっぱなしなんです。置いてあるカメラが撮影をしているという意識が全然無かったようです。自然体のまま写って下さって。
お年寄りなんかは、そういうかたが多かったですね。でも、ちょっと若いかたになると、撮影が始まったこととかは意識するのでしょうけれど、それでも、皆さん、自然体でしたね。

― 出演されていた方々とは、どのように知り合ったのでしょうか。

加藤監督: 飯館村では、現地を案内してくれる人がいましたけれど、どんな人と出会えるのかは未知数だったと思います。最初に出てくる牧畜をしている方とか、「山で山菜を育てているお爺さんがいる」とか、たまたま宿の女主人が紹介をしてくれたんです。最後の女性は、現地で偶然に出会えた人ですね。

― 牧畜をしているかたや、山で山菜を採っているかた、田を管理しているかたなどがいて、自然と関って暮しているかたが多いことが印象的でした。確かに福島にはそういう仕事のかたも多いとは思うのですが、出てくるかたに関しては、「自然に関って生きている人を撮ろう」といった風に決めていたのですか?

加藤監督: 特にそういうことはなくて、とにかく、惹かれる人を撮ったという感じです。

― 映っているかた以外にも、色んなかたにお話しを聴いた上で人選をされたのでしょうか。

加藤監督: 撮影の後半に、原発反対運動をしている人などに会って、それなりに話は聞いているのですが、聞いた当時は撮影はしていないんです。
本作は「第一章」という形にしているのですが、実はまとめていく過程で、この「第一章」は春夏の様子で、第二章で秋冬の様子を形にしたいというのが、頭にありました。
それで、第一章のほうでは確かに自然に関って暮しているかたが多いのですが、第二章のほうで、その後に会った、原発反対運動をやっていたり、印象的なかたがたくさんいるので、撮っていけたらと思ったりしています。ただ、まとまるか、わからないけど。本作の撮影後も、色々とデモや集会も含めて、新たに撮影をしたりはしている状況です。

― タイトルに付いていた「第1章」というのが気になっていたのですが、そういう、撮影で出会った人による事後の変化があるのですね。

加藤監督: そうですねぇ。ほかのドキュメンタリー監督のかたも、継続して撮っているかたは多いみたいです。しばらくしっかり観ていきたい、というのがあるかな。
私の場合は、今、模索をしている状態ですね。「フクシマからの風・一章」「二章」という形で、続けていくこともできるのですが、色んな監督の色んな作品のアプローチが、大きな全体の中の「第二章」として存在するという風にとらえていくべきなのかとも思ったりして…。
それから、私は何か、一つの「作品」としてまとめたいという思いがあるんです。「ドキュメンタリー映像」というよりは、「映画」を撮りたい。今の監督は、デジタルビデオカメラとかで、さっと撮って映像を作っていく感覚もあるかも知れないけれど、僕は、フィルムの頃の映画の作り方のようなものを大切にしたいと考えているんですね。
「“今”をどんどん伝えていく」という制作スタイルもあって、それも大切だとは思うんだけど、僕は、一つの独立した、普遍的な作品として自分の撮ったものをまとめたいと思うんです。報告とか報道とは、少し違うところから撮っているんですよね。現実を撮るというよりは、人間を捉えたいという思いに繋がるのですが。

― 前作も、初めこそデモのシーンから入るけれど、だんだん、小泉さんの生き様から核施設について捉えていくようになります。人の生活が感じられる映画のスタイルによって、問題の現状が実感を持って鑑賞者の中に取り込まれていきます。観た後にずっと記憶に残るものになっていますね。本作でもそのスタイルが踏襲されています。
この映画自体では実は、明確な主張や問いかけはしていないと思うのですが、出ていたかたが身近に思えて、観た後に自分だったらどうするかとか、自分は今どうしているかといったことを考えさせられました。


加藤監督: そうですね。「監督である自分の主張を伝えたい!」というようなことではなく、撮られた人の生きている姿や生き方のようなものを通じて、映画を観た人が考えるきっかけになればと思っています。

― 前作では、小泉さんが運動家のところに激励に行ったあと、応援はしつつも、すぐに帰宅するシーンがありますね。
小泉さんの場合は、デモなどの活動ではない部分で、しっかりと語りながら農業を続けて土地を守るという生き様自体で反対をしているというところが印象的でした。監督自身は、デモのかたがたも第2章でまとめるかどうか吟味中というような状況から察すると、デモのような特異な動きより、もっと長いスパンで観ていくという部分があるのでしょうか。


加藤監督: ええ、まあ、デモの活動家を撮るにしても、やっぱり、その人の生き様が見られないと味気が無いですからね。そこは思います。どういう人が、どういう生活を抱えながら、デモをするのか、というところですよね。それが無かったら、私の作品じゃないですね。
ただ、何回か車で、福島から海岸線を北上していくルートで、瓦礫の山―というか、今、問題になっている、廃棄物の山というのを延々と観ていて、その光景はショックでした。異様な光景というか…。自分たちは、本当のごちゃごちゃしている物の世界に生きているんだなぁとも思ったし、そこに暮していた自分の姿が見えたりもして…。
その場所に暮している人がいるということを忘れないためにも、何か伝えていきたいという気持ちがやはり、あるんですよね。被災地を整備するため、本当に、何もないように片付けていくわけですけど、そういう中で、新しい風景が生まれて変わっていく時に、何か取り残されていく人の声があると思うんです。そういうものは、ちゃんと、そこで終わらせないで残していきたいという、何かモヤモヤした思いがあります。
そこが、第二章へつながるかどうかというのは、まだまだ模索中だけど…。
あまり、語り過ぎると作品にならないかもね(笑)。まだ、人に語ってまとめてしまうより、自分の中で考えたいところです。

― 出ているかたで、畜産をしているかたが、「畜産は、駅伝のようなものだから」と後の世代に繋いでいくということへの気持ちが出てくるシーンがあったり、最後に出てくる女性が、「前の人が植えてくれた物を食べているだけ」と話していたり、自分の今の瞬間だけではなくて前の代や後の代の人を考えた時間の流れへの想像をはらんだ言葉が印象的でした。

加藤監督: なるほど、そういうのは、あるかも知れません。ドブロクのお爺さんも、自分の息子は東京に出て跡継ぎがいないので、自分の村に来て後を継いでくれる人を募集していたりしたし。
川内村は、ずっとそういうことをやっていたんですよね。皆、後に伝えたいという思いはあったでしょう。

― 映画を観ていて、自分はそういう感覚で生きていたかなあと考えさせられたりもしました。都会で暮していると、そういう意識が希薄になってしまうこともあるのかも知れないですね。

加藤監督: それこそ、小泉さんも、2年くらい前に亡くなったのですが、ある時期から意識して、次の代に何を遺せるかというのを考えて核施設にきちんと対峙していたんです。共有地にある、神社とか土手とか、自分の守ってきた田んぼとかが、自分の死んだ後に、息子さんたちにどういう風に遺していけるか、と。でも息子さんたちは、小泉金吾さんが激しい気性の強烈な意思の持ち主だったので、そういうところからは少し離れて冷静に観たいというのがあるようでした。まあ、第二世代っていうのは、前の代そのままという訳にはいきません。ただ、勿論、核廃棄物について賛成になるとか、考えなくなるということでは無くて、息子さんたちは死後も金吾さんの思いをしっかりと守っているんです。息子さんたちに、どういう後姿を見せていたのかというのが、ちゃんと息子さんに伝わっていて、金吾さんの遺したものを僕も観ていたりしたんですよね。
それは、簡単に言うと、筋の通った生きかたをしていたのを見せていくという無言の教育だけれど、親のやり方に反発しながらも、そういう根底の部分はしっかりと受け継がれていくんですね。
原野の中に1軒という感じの家で―まあ、国道の側だから秘境のような場所ではないんだけど、そこでずっと暮すというのは、大変なこともある暮らしなわけですよね。

― 撮影後にも見続けていたからこそわかることですね。

加藤監督: 撮影後にどうなっていくかというのは、やはり、気になるんですよね。自分が金吾さんに関って、撮影が終わって作品が完成したらそれで終わり、という風には…できないですよ。自分がそういう性格なだけかも知れないですが…。でも、金吾さんの近くに行って、まだまだ話しを聴きたいというのがあって移住もしたし。それが、ドキュメンタリーの、面白さかも知れないですね。どういう形にしろ、撮り続けるというのは、大事なのかなぁ…と。それが、ドキュメンタリーとドラマとの違いなのかなあ、と思ったりもしますね。
まあ、今でも、なんで今回の映画を撮り始めたのかということは考えることがあるのだけど…やはり、ずっと、前作で小泉さんに出会ったことが何だったのかということを考えていたのです。その思いを継いでいくというと大仰になってしまうし、特に青森でも反対運動に入っているわけでも無いんだけど…神社や田んぼを守り続けた小泉さんから生き方を学んで、同じように生きてみようと過した10年の中で、自分で得たものが何だったのかということを模索していました。それで、何か、「ここで、もう一度やらなきゃいけないんじゃないか」と問われているような気がして。そもそもの小泉さんとの出会いもドキュメンタリーの撮影から始まって、その後は農業にも関りつつ、でも、やっぱり自分の根底は、映像で何かに出会ったり伝えたりしていくことなのではないかと思えて。
小泉さんに会っていなかったら、今回の映画も、無かったのは確かですね。

― 一本のドキュメンタリーの意味を、考えさせられます。

加藤監督: 本作も、ドラマチックな展開があるわけでもないですけれど、記録としてだけでも続けるというのも大切かと思っています。山菜のお爺さんなんかは、その後会えなくなってしまったし。お爺さんは直前に「にわとりの世話もあるし、3日に1回は帰る」と言っていて、姿が確認できなくなったあと、何度も行っていたし、移った後の姿も追えるだろうと思っていたりもしていたんだけど、本当に連絡が取れなくなってしまって。
自分が思っていた展開にならなかったけれど、そういう現実も、記録しておくことに、意味があるのだよなぁと思うようになりました。ドキュメンタリーって、そういうものなんです。
事前に、「こういう展開になるのかな」と想像しつつ撮影はするわけだけど、基本的には、全部、そういう風にはならないんだよね。
ドブロクを作っているお爺さんなんかは、「去年まではドブロクを作っていて、配ると喜ばれたりしていたんだけど、今年はどうしよう」なんて、一人暮らしでしょぼんと言っているから、もう、応援するような気持ちで、「映像に残すから造りましょうよ!!」とか言って、撮影を始めて。そうしたら、奥さんが原発の近くの病院で亡くなった話とか、大変な被害を受けていることがわかったり、お墓参りに行くことになったり、もはや、当初の想像とはかけ離れた展開になったんです。それで、撮影していたら、「モリアオガエルの卵が木に産み付けてあるから、他の場所に移す」とか言って動き出して、何のことか分からず撮影もあたふたしたり(笑)。その中で、予想外の、その人らしい姿が見えて、映っている人の思いとか、生き方とかが記録に残るのが、やはり自分には大切なんですよね。
テーマを設定していないということの良さが、ドブロクのお爺さんには旨く出たかな、と思います。

― あのかたのシーンは、本当に、印象的でしたね。はじめ、卵を持ち上げるので、殺してしまうのだろうかと思ったのですが、ちゃんと、庭の片隅に、桶を木の下に設置した卵生育用のブースがあって(笑)、「これが俺の役目や…」というようなことを呟やいていて。

加藤監督: そうそう。そういうのが、本当に、人柄も人生も出る、いい言葉が撮れて嬉しくなる瞬間ですよね。そういう、瞬間の出会いです。シーンとしてはさりげないシーンだけど、何か心に残るという場面で。構えていたら撮れなかっただろうシーンが撮れるというのは喜びですよね。
今はあのかたも、その後に入院を何度かしたりしてお家で暮せなかったりもして、映画に残っているのは本当にあの瞬間の大切な時間なんです。

― 瞬間、なんですね。

加藤監督: だから撮ったあと、見返して初めて、「ああ、こんなことも写っていたのか」なんて何度も新しいことに気付いたり。
それから「夫婦で暮してこれたから」って二人で頑張っている人もいれば、パートナーを亡くしているかたがいたり、それが偶然交互に出てきて、「つながり」という見えないテーマで響きあっていたというのも後になって気付かされて驚いたりね。巧まずに構成されているだけの作品だったのに。

― 何度観返しても、新たな発見もありそうですし、自分の捉え方も変化していきそうですね。
また、じっくり拝見させて頂きます。


(都内、某茶店にて、2012年6月)

脚註

※1
上映会場や、「『在』出版会・あおもり」などで販売中。
『在』出版会・あおもりサイト http://zaiaomori.wordpress.com/koizumi/


参照上映作品

ポレポレ東中野(東京都中野区)にてロードショー
連日12:40/14:40上映
参考サイト:http://www.mmjp.or.jp/pole2/

『フクシマからの風』公開記念イベント
・7月28日(土)
12:40の回上映後 加藤鉄監督による初日舞台挨拶
14:40の回上映後 椎名千恵子氏【「原発はいらない福島の女たち」呼びかけ人】×加藤鉄監督トークイベント
・7月29日(日)
12:40の回上映後 加藤鉄監督による舞台挨拶
14:40の回上映後 マサイ氏【本作出演・獏原人村】× 加藤鉄監督トークイベント
・7月30日(月)
14:40の会上映後 武藤類子氏【ハイロアクション福島実行委員会、『福島からあなたへ』(株式会社大月書店、2012年)著者】ゲストトーク
・7月31日(火)
14:40の会上映後 山田征氏【「ヤドカリハウス」主宰】ゲストトーク

参考サイト: フクシマからの風 第一章 喪失あるいは螢

最終更新 2016年 8月 12日
 

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