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ヨコハマトリエンナーレ2011
レビュー
執筆: 田中 麻帆   
公開日: 2011年 10月 18日

[fig.1] オレリアン・フロマン《ポケットの劇場》 2007
Installation view for Yokohama Triennale 2011
Courtesy the artist and Motive Gallery, Amsterdam
Photo by KIOKU Keizo
画像提供:横浜トリエンナーレ組織委員会

[fig.2] ミルチャ・カントル
《Tracking Happiness / 幸せを追い求めて》 2009
(c) 2009 Mircea Cantor
Courtesy the Artist and Dvir Gallery, Tel-Aviv
画像提供:横浜トリエンナーレ組織委員会

[fig.3] ヘンリック・ホーカンソン《倒れた森》 2006 / 2009 / 2011
Installation view for Yokohama Triennale 2011
Courtesy Galleria Franco Noero, Turin,
The Modern Institute, Glasgow and the Artist
Photo by KIOKU Keizo
画像提供:横浜トリエンナーレ組織委員会

[fig.4] ジュン・グエン=ハツシバ
《呼吸することは自由 12,756.3:日本、希望と再生、1,789》 2011
Installation view for Yokohama Triennale 2011
Courtesy Mizuma Art Gallery, Tokyo
Photo by KIOKU Keizo
画像提供:横浜トリエンナーレ組織委員会

[fig.5] スーザン・ノリー《トランジット》 2011
Courtesy of the artist, Giorgio Persano Gallery,
Torino and Mori Gallery, Sydney
画像提供:横浜トリエンナーレ組織委員会

     インターネットの普及と発達のおかげで、現代の私達は検索エンジンにキーワードを入れさえすればどんな答えも得られるかに思える。世界中と繋がることのできるこのネットワークのもとで、未知の世界に出会う好奇心と、全てが知れてしまったような退屈さと、しかしここからは見えない世界もあるという思いの間で、誰もが揺れ動いているのではないだろうか。

     今回のテーマ「OUR MAGIC HOUR―世界はどこまで知ることができるか?―」は現代のこのような感覚を的確に捉えているだろう。アーティスティック・ディレクターの三木あき子は、ネットワーク社会における情報の集積と拡散に着目したと語る。本展の作品には(鑑賞者が主体的に作品と関わるなどの)身体性、各作家独自の視点による世界の再構築、科学的立証や理性を超えた生命・自然、想像力の産物といった特徴が見られるという※註1

      実際に展示風景を見ていくと、今回の横浜トリエンナーレはあらゆる「わたしたち」に開かれている印象を受ける。前回2008年の展示は、祝祭感は狙わないという総合ディレクター水沢勉の発言に代表されるように、国際的な美術展が各地で開催されるようになった現状にふさわしい尖鋭的な工夫が多く見受けられたが、その一方グロテスクで緊張感あふれる作品に戸惑う鑑賞者がいたことも事実である※註2。対して2011年の今回は、国内と海外からの鑑賞者の両方に楽しさや新しい観点を提供しようと試みた横浜トリエンナーレの原点に、ある意味で立ち還っている※註3

      今回初めて会場となった横浜美術館では、高齢者からベビーカーを押す人まで、幅広い層が訪れているのが印象的だった。同様に初の試みとして、ルネ・マグリットやポール・デルヴォーらのシュルレアリスム作品や浮世絵などの収蔵品が現代作品と組み合わせて展示されていた。これは賛否両論を生みそうな方法ではある。しかし、現代美術にふれる機会の少ない鑑賞者にとっては、「現代美術」ではない作品のモチーフの組み合わせ方や見立て、描法等が鑑賞の手がかりとなる役割を果たしていると感じられた。このことは横尾忠則、樫木知子といった現代画家の近作、最新作やスン・シュンの映像作品を鑑賞する際に顕著だろう。

     出品作のひとつオレリアン・フロマン《ポケットの劇場》(2007年)[fig.1]は、奇術師が次々とスナップ写真や古今東西の遺物の写真、カードなどを提示していく映像作品。アーカイヴのような図像の連なりは、ヴァールブルクの「ムネモシュネ」やリヒターの《アトラス》を思わせ、イメージの連続性や写真にまつわる思索を誘いつつも、視覚の手品として目を楽しませる。この作品に見入っていた鑑賞者の多さに象徴されるように、美術館会場の展示は全体として博物館のように多種多様な作品が楽しげに賑わい、カラフルなもの、美しいものを提示しながらも、政治と社会、コミュニケーションなど、現代のネットワークのあり方に対する深い洞察を垣間見せていた。

     とりわけ印象的だったのは、ミルチャ・カントルの《幸せを追い求めて》(2009年)[fig.2]という映像作品だ。まっ白な砂の上を、8人の女性が輪になって歩き続けている。皆ほうきを持っていて、前の人が砂の上に残した足跡を掃いて消す。そしてその上に足跡をつける。これをぐるぐると繰り返す。その動きは乱れなく同じタイミングで続けられ、彼女たちは協調し繋がり合っているようにも見える。しかし皆全く同じやり方で、幸せは掴めるものだろうか。前の人の残した道を辿るかに見えてすぐ消し、自分の成した道もすぐに消されてしまう彼女達は、幸せなのだろうか。静かな表情や音楽から、これが幸福に満たされた行為にも、強迫的な運動のようにも見えてくる。ここで思い出されたのは、ミヒャエル・エンデの童話『モモ』に出てくる道路掃除夫ベッポの話だ。彼はモモに向かって、長い道路を受け持たされた時、道路全部のことを考えてはいけないと言う。残りの道路が長すぎるほど焦って、いつまで掃いても終わらなくなる。反対に、つねに足元の次の一歩、次のひと掃きだけを考えて行けば楽しくなり、いつの間にか掃除は終わる、これが大事だと語る。

     カントルの作品でも、いつまでも続く道程とその歩き方の関係に、見る人それぞれが自分の人生の目標や幸せの形、生き方をなぞらえ捉え直すことができるだろう。更に言えば、今日ではSNSコミュニケーションが普及し、インターネットを介した情報の交換・共有で充実した日々を紡いでゆくことができる一方、「周囲に見せる」という目的が先行し、幸せの形が相対的なものになりかねない面もあるように思われる。《幸せを追い求めて》からはそんな若い世代の状況も連想された。

      もうひとつの会場である日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)の作品は、植物や自然をテーマとしたもの、遊び心溢れるもの、グローバルな視点をもつものが多く見られた。ヘンリック・ホーカンソンによる、三階建ての展示会場を木が貫通したように見せる作品や、木々が真横に倒されても枯れずにダイナミックに伸びる《倒れた森》(2006/2009/2011年)[fig.3]では、コンクリートから生える雑草のように、与えられた状況に負けない自然のたくましさが感じられる。同時に、本来の土壌から根を移され、断片化された木の姿は自由にカット&ペーストされ浮遊する現代の情報のあり方をも思わせる。

      スーザン・ノリーとジュン・グエン=ハツシバは3月11日の震災に向き合う作品を出品していた。日本の復興に祈りを捧げ、支援を行うハツシバの《呼吸することは自由 12,756.3 日本、希望と再生、1,789》(2011年)[fig.4]はベトナムのホーチミンシティと横浜のボランティア(ランナー173人、 ナビゲーター33人)がそれぞれの街をGPSをつけて走り、走行経路が桜の幹の映像の上でピンクに色づいて花の部分を描き出すというプロジェクト。展示室 には走る人々の写真がランナーとナビゲーターの名前や場所、走行距離の情報と共にスライドショーされている。各人が懸命に身体を動かし走る姿、その表情 が、私達が力を合わせることの重要さをシンプルだからこそ雄弁に訴えかける。

      スーザン・ノリー《トランジット》(2011年)[fig.5]は当初予定していた種子島のロケット打ち上げの映像と、作品準備中に起きた3月11日の震災後、被災地である福島県南相馬市や高円寺の反原発デモに駆け付け撮影した映像の両方を提示していた。ニュースでは殆ど見られなかったデモの光景。本来ならのどかな田んぼと家並みであるはずの場所に、巨大な電光掲示板で立ち入り禁止のメッセージを掲げるものものしい警察車両。静かな映像の連続によって、報道に色づけされる前の姿がむしろ激しく見る者に迫ってくる。一方種子島の映像は、ロケット打ち上げの様子と桜島の噴火の煙がまるで等価であるように交互に写し出される。

      旅客機と自衛隊機の離着陸を介してふたつの場所の映像がつながる《トランジット》は、ただ東北と種子島の間、人工物と自然の間を示すものだけではないようだ。種子島の映像では、人々が打ち上げの様子を遠巻きに見上げる様子と、一心に携帯電話で撮影する心理的な近さという不思議な距離の関係が見られた。デモの光景では、放射性物質による子供への害について訴えるポスターを抱える女性、デモと関わりがなさそうにも見える車の中の若い女性の笑顔、渋滞の交通整理をする警官、デモカーを運転する老人らそれぞれの表情が映される。各人が一体どんな思いを抱いていて、何を「見て」いるのか。彼らそれぞれの見方の間に感じられる距離から、この作品を見ている私も例外ではないことに気付かされる。

      これらの作品が代表するように、日本郵船海岸通倉庫の展示作品は私達を取り巻く大きな力を示しながら、そこに個人個人が見出す世界の姿が違うこと、個々が世界に対してどんな行動をとるのかについて考えさせるものだった。

      ヨコハマトリエンナーレ2011のタイトル「OUR MAGIC HOUR」は、太陽が沈んだ後の束の間に、青と茜色が混じり合う明るい夕空が見られる、神秘的な「マジックアワー」のことも意識しているかもしれない。鑑賞者は、黄昏前のきれいな空を眺めるごとく、魔法のように次々繰り広げられる世界の姿にしばし魅了され、息をのむだろう。それぞれ異なるテンポで日々の時間を刻んでいる「わたしたち」は、かけがえのない一時を共有し、繋がることもできるのだ。



脚注

※註1
2011年8月20日、日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)でのトークより。

※註2
朝日新聞2008年10月18日におけるインタヴューの発言。「アンチではないが、祝祭感は狙っていませんし、入場者数も意識していません」。(『横浜トリエンナーレ2008掲載記事クリッピング集』横浜トリエンナーレ事務局、2009年)
他にも同記事の中で、展示が美術にある程度親しんできた人を対象としていること、楽しむというより静かに作品に向き合ってほしいということを語っている。
ちなみに、2008年横浜トリエンナーレのタイトルは「タイムクレヴァス」である。日常の中に潜む亀裂、その深淵を作品を通し直視させることで見る者を勇気づけるとの意図があり、それは9.11以後の観衆の状況を踏まえた上での姿勢でもあったようだ。他にも、市場主義作品の排除や、最新作とパフォーマンスへのこだわり、各国際展で人気が集中しがちな若手作家より中堅作家の視点に期待するなど、緊張感を重視する方向性が見受けられる。(水沢勉「タイムクレヴァスへ」『横浜トリエンナーレ2008ガイドブック』横浜トリエンナーレ組織委員会、2008年。水沢勉「タイムクレヴァスを終えて」前掲報告書p.5.)

※註3
2001年第一回目の横浜トリエンナーレ。タイトルは「メガ・ウェイブ―新たな総合に向けて」。
2005年の横浜トリエンナーレは、「アートサーカス―日常からの跳躍」をサブタイトルに掲げ、ダニエル・ビュランがサーカス団とコラボレーションしたパフォーマンス作品の上演およびビュランが会場入り口に展示した赤白ストライプの旗による祝祭的な作品をメインイメージにするなどした。



参照展覧会

「ヨコハマトリエンナーレ2011 OUR MAGIC HOUR ―世界はどこまで知ることができるか?― 」
会場: 横浜美術館、日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)
期間: 2011年8月6日(土)-2011年11月6日(土)

最終更新 2015年 10月 20日
 

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