高嶺格:とおくてよくみえない(2/2ページ) |
レビュー |
執筆: 田中 麻帆 |
公開日: 2011年 6月 20日 |
{gallery="横浜美術館" related="高嶺格:The SUPERCAPACITOR/スーパーキャパシタ" artist="高嶺格" text="会期:2010年1月21日~2011年3月20日 会場:横浜美術館 横浜美術館に入ると、早速いつもとは違う風景に遭遇した。この美術館は企画展示室が二階にあり、一階からエスカレーターで上って行く構造になっている。今回は、普段下からも見える二階の・・・" image=thumb2011a/review20110620008.jpg writer="田中 麻帆"} 「物語る」という方法 ますますわからなくなり次の展示室へと進んだ。展示室には二つの映像作品があり、ひとつはディスプレイが組み合わされたインスタレーション。もう一方は大きなスクリーンにクレイアニメーションが映写されている。両者とも、「物語る」という方法それ自体に対し意識的であるようだ。 更に部屋を進むと、物語化に対する高嶺の視線について、よりプライベートな観点から理解できる。とはいえ「理解できる」といった表現をしてしまってよいのかどうかと、この《ベイビー・インサドン》(2004年)[fig.6]は思わせる。高嶺には在日韓国人の恋人がおり、ある日突然彼女から「在日に対して日本人がもつ嫌悪感」の所以について問われた、というエピソードから作品が始まる。この作品は、2人の結婚式を中心に撮影したスナップ写真を横一列につなげ、高嶺が彼女の父親(アボジ)や、親世代の思いを受け継ぎながら日本で育った恋人ら2世それぞれが抱えてきた複雑な内心に触れ、自身の先入観との違いに気づいてゆく経緯を、モノローグを添えて表現している。
最後にこの展覧会のメインと思われる《とおくてよくみえない》[fig.7]の展示室に入った。入口は正面がわざとふさがれ、横からかがまないと入れない。真っ暗な展示室の中では、正面中央の大きなスクリーンに映像が流され、他にも小さなスポット状の映像が5つほど縦横無尽に乱舞している。日韓英中仏独と、多カ国語のメッセージも、文字と音声で流れている。 その意味を考えるためにも、一旦話を展覧会入口の作品に戻したい。あまりにも質素な展示をされていて、私は展覧会を見終わるまでその存在に気付くことができなかった。しかし実はこの写真作品《木村さん、2004年、パン・パシフィック横浜ベイホテル東急にて》[fig.8]は、《とおくてよくみえない》と対応し、本展の根幹をなす作品とも言える。写真はフレームにも入れられず直接柱に貼り付けられており、キャプションに至ってはただ床に置かれているだけ。以前高嶺は、重度の障害者である木村さんという男性をボランティアで介護していた。そして木村さんを性介護する様子を映像化したが、その作品は2004年に予定されていた横浜美術館での展示を中止せざるを得なかったという経緯がある。※9 展覧会全体が矛盾や皮肉、理解し合えないもどかしさを提示しつつも、なぜか高嶺作品には観者を楽しませ、前進させようとする力がある。逆の言い方をすれば、高嶺作品を鑑賞するためには、共感するにしろ反感を覚えるにしろ、自らの問題に引き付けて能動的に見進めていかざるを得ない。更に奇妙なことにそれは、強制的に押し付けられた能動性という矛盾をもはらむ。 脚注 ※6 本作品に関する推測は、あくまで筆者の個人的な感想である。以下の記事からは、別の解釈の可能性も多分に窺える。 ※7 恋人同士のように演出されているものの、実際にはそうではないという。 ※8 高嶺の自著『在日の恋人』(河出書房新社、2008年)の結婚式当時の日記によると、ナジャは実際に結婚式に招かれ余興を行い、両家の好評を博したという。一方、展示作品の《ベイビー・インサドン》からはフォーマルな場がもつある種の排他性が想起される。この作品においてナジャは異なる二つの立場の溝を解消する、どちらの極にも属さない存在として強調されている。更に、おとぎ話の筋書きが示すように、「エイリアン」のナジャがもたらした和解は束の間のものとして象徴的に扱われている。 ※9 「ノンセクト・ラディカル 現代の写真Ⅲ」という展覧会。 ※10 本展の作品《A Big Blow-job》のタイトルは、高嶺によれば「大きなフェラチオ」という意味。その「受動性は完全ではない」と語るサルトルの言葉に、つまり能動性や攻撃性を秘めているという点に高嶺は興味を持ったという。 前掲展覧会カタログ、pp.104-05参照。 参照展覧会 「高嶺格:とおくてよくみえない」 |
最終更新 2015年 10月 13日 |