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城戸悠巳子:吸血気
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 12月 21日

一見朝焼けだか夕焼けだかが水平線の向こうに見える爽やかな海の光景だが、気づけばそのほぼ中央にぽっかり黒い穴が空いていてはたしてこれは何だろうかと私たちに思わせる[fig. 1]。その黒い穴のあたりは波がなぜか寄り集まっていて、あたかもそこから海神でも出現しそうな不穏さがある。それさえなければ、水平線の微かなオレンジ色の陽の光と海景の組み合わせはクロード・モネの《印象・日の出》(1873年)も想起させ、たとえそれを想起しなくとも私の心持ちを不快よりというよりは快適にさせてくれる。

fig. 1  《ファ、ラ、レ、レ、ド、シ、ラ、ラ、ラ、ラ、ミ、ミ、ファ》 2009年|油彩・アクリル・キャンバス|112×162cm|画像提供:YOKOI FINE ART|Copyright © Yumiko KIDO

fig. 2  《ソのシャープ、ラミソ》2009年 油彩・アクリル・キャンバス|130.3×162cm|画像提供:YOKOI FINE ART|Copyright © Yumiko KIDO

fig. 3  《ミファラ》2009年|油彩・アクリル・キャンバス26×36.5cm|画像提供:YOKOI FINE ART|Copyright © Yumiko KIDO

その出所は、生命を育む海に対するイメージか、あるいはもっと俗物的に、開放的で快楽的な夏の海のイメージか。なんにせよ私は海に対してマイナスというよりはプラスのイメージを持っているわけだが、しかしそれも一度間違えれば死のイメージと隣り合わせだということは言うまでもない。自身が遭っていないにせよ水難事故は毎年のように起こっており、台風ないし暴風雨によって威力が増した海が私たちの生活に甚大な被害をもたらすことは往々にしてある。従ってこの作品の〈穴〉が呼び起こすのは、具体的なイメージと直接結びつかないにせよ、海が持つ本質的な不穏さ、つまり私たち生命を育む一方で脅かしもする暴力としてのそれであるだろう。

ギャラリーのドアを開け正面にあるこの作品が導入となり、私はその穴の中に入り込むように深く潜って行く。見渡せば壁に掛けられているのはいずれも不穏な佇まいをしているものばかりだ。たとえば今回最大の作品である、《ソのシャープ、ラミソ》(油彩・アクリル・キャンバス、130.3×162cm、2009年)[fig. 2]はどうしたことか。白い歯が覗くおそらく若い女性の口は薔薇をくわえており、それだけでも十分何があったのかと思わせるが、口角から先は出血しており、その血の滴が薔薇の葉をつたい滴っている。そもそも女性の顔面は口から下しか描かれておらず、その一部は凍りついているかのごとき雰囲気で、花も葉も白く凍結しているから、血の温かみがその表面を溶かしているようにも見える。そればかりではなく、この顔の白みを精液のそれと見ることも可能である。伊藤若冲の描く雪の光景よろしく、その粘着質の白の質感は、性的なイメージをも私に喚起させて止まない。

そう見ればその他の、おそらく百合科の花を口にくわえた女性の、まさしく口元にクローズアップしたいくつかの作品がきわめてセクシュアルな意味合いを持っていることは明白だろう[fig. 3]。赤い唇と、いくらか開いた口から見える歯や舌や花が連想させるものは、エロティックなイメージにほかならない。けれどもそのエロティックなイメージは、男性が女性を支配するようなものというよりはむしろ、女性に支配される男性のそれではある。すなわち城戸悠巳子の個展「吸血気」から見て取れるのは、男性に対する女性の全能感のようなものだ。男性の中には女性を支配しているように思っている人も少なからずいるだろうが、その実彼らは彼女らの掌で転がされているのではないか。いや、掌などではなく、その舌の上で転がされるのを望んでいるのではないか。そういう心情を、単に性癖ではなく、肯定的に過ぎるのかもしれないが原初的な母性への回帰として見てみること。そう、さすれば先の海が、「母」という一点で繋がっていることが明らかになるだろう。それは「男」であるあなたの目線であると言われればそれまでだが、そういうものとして私は城戸の絵画を見たい。とても官能的で、懐かしくもあるものとして。

最終更新 2015年 11月 02日
 

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