さかぎしよしおう 展 |
レビュー |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2009年 12月 09日 |
ちいさきもの。言葉の覚束ない子供や、あるいは両の掌でおさまるくらいの小動物。いきものでなくとも、玩具や工芸品の類い。多かれ少なかれ私たちは、そのようなちいさきものを「愛でる」心性を持っている。サイズの大小は相対的なものであり個々人の感覚によるところが大きいが、一方で身の丈を超えるものに対して「愛でる」という感覚は持ちにくいのではないか。「愛でる」とは言うならば自身の支配下におくこととも同義であり、それゆえたとえば自らの力の範囲が及ばない神仏を造形したものはとかく巨大化されるのが常である。信仰のあり方に応じて大小さまざまなサイズであらわされることを否定はしないが、たとえば愛玩の対象としての犬や猫が高さ30メートルの巨大彫刻となってあらわされることは私の知るかぎりない。 では、さかぎしよしおうの作品群はその小ささから判断して「愛でる」対象としてあるだろうか。近年のさかぎしの作品は、磁器土をスポイトで垂らすことによって生まれる滴を組み合わせ様々なかたちに構築し、それを焼き上げることで作られている。ホワイトやブルーの滴の集合からなる作品は、その軽やかな色みに加え一つ一つの滴が球体のまま留まっているため、「愛でる」対象として見ることも可能である。「六本木クロッシング2007:未来への脈動」(森美術館、2007年)や「プライマリー・フィールド 美術の現在—七つの<場>との対話」(神奈川県立近代美術館葉山、2007年)といったグループ展でいくつかの作品を見たとき、完成度の高さに驚きながらも、それらから「かわいらしさ」もまた感じたことを私は覚えている。考えてみればその感情は、掌に乗るほどのサイズという作品の小ささ、そして先の色やかたちに因っているに違いない。 だがこの度ギャラリエアンドウで発表されたさかぎしの新作の佇まいはどうか[fig. 1][fig. 2]。サイズはほとんど変わっていないようである。しかし、色が深いグリーンになったことに加え、滴がレンガ積みのごとく隙間なくみっしりと積み重なっているなど明らかな変化が見受けられる。とりわけ真横から見た作品の感触が以前とはまったく変わっている。以前はレンガ積みではないから滴と滴の間にちょっとした空間があり、それが作品の印象としていくばくかの繊細さも与えていたようだったが、一転している。その色と作りのためにそれまでのかわいらしさが消え、一つの存在としての強さがより増しているのだ。そう、さかぎしの今回の新作はとても「愛でる」対象—支配下に置くことのできる対象ではなくなっている。むしろ神仏を仰ぎ見るがごとき確固とした存在としての強さを感じると言っても過言ではない。 ギャラリーのオーナーによれば、滴をレンガ積みにしたことによりこれまでは不可能だった造形が可能になったということだが、何にせよそれぞれはかたちとしての意味を持っていないにもかかわらず、有無を言わさないかたちとしての説得力がある。そしてその説得力が、美しさに結びついている。私はこの種の美しさについて、どのような説明をしたらいいのかわからない。本当に美しいものは実物を見なければわからない、しかし見れば一目で魂をぐいと掴まれるものだと実感するのが今回のさかぎしの新作なのである。出品作品十点中八点は、弓なりに配置された展示台一つ一つにぽつんと置かれていた[fig. 3]。ギャラリエアンドウのギャラリーとしては小さめの空間はそのことで、そのまま円を描くように無限の空間へと拓けていく予感を孕んでいた[fig. 4]。 |
最終更新 2015年 11月 02日 |