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小林耕平:右は青、青は左、左は黄、黄は右
レビュー
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2009年 11月 06日

ゴミを拾う、草刈りをする、自転車に乗る、ビニールテープを転がす。場所は新興住宅地だろうか。それらはどれも日常的な動作や行為である。しかし、今展での小林耕平の映像作品≪2-8-1≫(2009)、≪2-8-2≫(2009)でそれらの行為が淡々と映し出されると私たちは不可解な状況の目撃者へとさせられてしまう。

≪2-8-2≫2009年|15min31sec.|Courtesy of YAMAMOTO GENDAI|Copyright © Kohei Kobayashi

さらに不可解なことがある。カメラの動きが不自然なのだ。例えば、画面が手ぶれによって小刻みに揺れたり、唐突なズームイン/アウトがなされたりする。しかし、その先にカメラが写しだすのは、ただの草むらだったりするのだ。画面にフレームインする人物でさえカメラはフォローしているようで、まるで気にしていないかのようだ。

それは、通常の映像・映画制作ではありえない技術的な未熟さを露呈しているとさえ言えるだろう。まるでビデオカメラを手にしたばかりの初心者が気ままに目の前の情景を撮影したかのように。そんな撮影手法の技術的な覚束なさが画面を見つめる者の集中を散らせさえする。

しかし、15分の時間が過ぎた時、身体が映像をこれまで以上に注視していたことに気づく。稚拙な撮影技術が、逆に写される映像そのものに意識を向けさせるフレームであったことに私たちは見終わって気がつくのだ。そう、身体に微かに残るストレスとともに。

この作品では何が起こるかわからない。いや、起ってはいるがそれが何なのかはわからない。カメラは何を撮影しようとし、何を記録しようとしていたのか。写される人物は何をしていたのか。その不可解なカメラの動きはドキュメンタリー映画における撮影行為の予測不可能な緊張感を想起させるだろう。しかし、ドキュメンタリー映画においては「編集」という過程が映像を「映画」へとまとめ上げることは周知の通りだ。だが、小林の本展の作品はその点でも不可解なのだ。なぜこのような「編集」がなされ、15分という時間が必要だったのか、最後まで居心地の悪さを残して終わるのだ。これまで映画史が培ってきたカメラの動きや編集(モンタージュ)は無効にされ、私たちはこれまで自然に受けとめてきた映像鑑賞が有効ではないことを覚悟しなければならないだろう。

白昼、写される人物の行為は、次に何が起こるのかわからないサスペンスを期待させながら、映像はそのサスペンスを回避するだろう。さらに、そこに「サスペンス」な技術が映像をより不穏なものとする。映像を見ている私たちは否応なく映像を「見ている」状態を常に意識し続けながら、そのフレームを見つめるしかない。しかし、その「見る」という行為こそ、もっとも「サスペンス」な行為なのかもしれない。

最終更新 2015年 11月 02日
 

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