椎原保の作品を記述するのは、果たして可能なのだろうか。絵画や彫刻であれば、視覚的な特徴のひとつひとつを言葉に置き換えることと作品を語ることが、完璧に合致することはないにしろ、結びくように思える。それに対し、物を様々に配置することによって作られる椎原の作品の部分々々を言葉に置き換えたところで、椎原の作品を語ったことになるのだろうか。 むろん椎原の作品は、空間の中に物を配置することによって成立している。だから椎原の作品に何があったのかを記述すれば、一応は作品を語ったことになるのかもしれない。しかし、実際に作品を体験している時の感覚に照らしていえば、そこに何があったのかは重要ではない。むしろ、そこにあった物がどのようなものとして現れていたかが重要である。平凡な物を組み合わせることで作り出される物同士の関係性こそが椎原の作品であり、そこで物が見せる普段とは異なった現れ方こそが椎原の作品の特徴であるように思われるのだ。
ともあれ椎原の作品が物を配置することによって成り立っている以上、そこに何があったのかを記述することからはじめるほかはない。以下ではひとまず、本展が開催されたGallery Artislongというギャラリーと椎原の作品を簡単に説明してみよう。 Gallery Artislongは、京都・三条会商店街の一角に位置するギャラリーである。このギャラリーの特徴は、いわゆるホワイトキューブという形式を取っていないことだ。壁の半分あまりはコンクリートの打ちっ放しとなっており、床面は薄茶色のフローリングである。また空間の中には高さ2メートルほどの掃き出し窓があり、その先には庭が見える。窓際に立つと、商店街を往来する人の声や車の出す騒音さえも聞こえてくる。ホワイトキューブが日常的な空間から隔絶した空間を作り出すのに対し、Gallery Artislongは日常生活と緩やかに繋がっているような印象を与える。 椎原は、そのような空間に合わせて作品を作った。 ギャラリーの入り口の扉をあけてまず目についたのは、鏡である。左手の壁には姿見鏡が設置され、正面の壁には正方形の鏡が床置きにされ立てかけられていた。手鏡程度の小さな鏡もいくつか設置されていた。また一辺30cmほどの正方形の鏡が天井から吊るされ、鑑賞者が動くことによって作り出される空気の流れや窓から吹き込む風によってゆっくりと回り続けていた。その鏡には、大きなライトによって光が当てられていた。奥の空間に目をやると、テーブルが置かれているのが見えた。そのテーブル自体いつも置かれているものなのだが、そこには直径10センチ程のガラスの器がいくつか置かれ、そのレンズの上には小さな観葉植物が置かれていた。また、テーブルの上にはリンゴが天井から吊るされていた。そのほか、小さな発光ダイオードもいくつか設置されていたり、子供用の麦わら帽子がリンゴと同じく天井から吊るされていていたりした。
では、このような作品の中で、物同士はどのような関係性を形づくっていたのか。そしてその関係性の中で、物はどのように現れていたのだろうか。あらかじめ答えを記せば、物同士は中心がない場の中で、主役と脇役を様々に交替しながら現れていた、となるだろう。以下、説明しよう。 まず中心がないという点について。椎原の作品には、先に記したとおり様々なものが展示されていたのだが、それぞれの物は別の何かに奉仕するようなかたちで展示されていたのではなかった。最も大きな物であってもせいぜい姿見鏡程度の大きさであって、物理的な意味での中心と呼べるものはなかった。また象徴的な意味での中心もなかった。例えばリンゴと観葉植物との間には、植物という共通性は見いだせるが、そうした共通性に全ての物が収まるのではなかった。 こうした特徴を強調していたのは、鏡である。もし物理的あるいは象徴的な意味での中心があるとすれば、鑑賞者のまなざしはそこに向かって収斂していくはずである。しかし鏡は、収斂と真逆の拡散という効果をもたらしていた。 例えば、麦わら帽子を眺めている時、背後の壁の鏡が視界に入る。あるいは、離れた距離からギャラリー空間のある場所を眺めている時も鏡が視界に入る、というように、鏡は作品のたいていの部分で目に留まるものであった。しかし目に留まるからと言って、それ自体は中心とならない。鏡はただ、ギャラリーの別の場所や鑑賞者の姿を映しだすだけである。先に挙げた例で言えば、鑑賞者は、麦わら帽子を眺める時、背後にある鏡によってギャラリー空間の別の場所を眺めたり、あるいは離れた距離からギャラリー空間を眺める時には、そこで目に留まる鏡に映し出される自分自身の姿を見たりするのだ。このようにして鏡は鑑賞者のまなざしを拡散させ、中心の欠如した空間を作り出す。
ところで、中心の欠如した空間と記すと、見るべきものがない散漫な空間だという印象を与えてしまうかもしれない。しかし実際は、そうではない。というのも、天井から吊るされた正方形の鏡が光を反射し物を照らし、見るべきものを作り出していくからである。光の当てられた物は、スポットライトが当てられた舞台俳優と同じく、作品の中での主役と呼ぶにふさわしいものとなる。先に、椎原の作品においては物が主役・脇役を交替しながら現れると記したとおり、光が当てられたものがその時の主役となり、そのほかの部分が脇役となる。そして、ゆっくりとした光の動きにあわせて主役・脇役は交替していくのである。 もっとも、光は、作品内の全ての部分を照らすわけではない。だが、作品の全体において主役・脇役の交替は起こる。というのは光が、ギャラリー空間にあるあらゆるものが主役になりえるという感覚を鑑賞者に与えるからである。 そもそも光は、椎原が設置した物だけでなく、ギャラリーの壁の傷やペンキの塗り斑といった存在をも照らし出していく。普段はそうした微細な存在を気に留めることはないのだが、光に誘われるように照らされた部分へとまなざしを向けると、自然にそういった存在に意識が向くようになる。そしてひとたび微細な存在に意識が向くようになれば、その他のささやかな物や、外から聞こえてくる音に対してさえも意識が向くようになる。それは視覚・聴取の対象の変化と言えば良いのだろうか。ギャラリーを舞っているほこりや外を通る車の出すクラクションの音といった、普段は意識を向けなかったものが、見るべきもの、聞くべきものとして現れてくる。 光がもたらすこのような経験は、多様性に気づく経験だと言い換えても良いだろう。鑑賞者は、椎原が作った物以外にも、見るべきものや聞くべきものがあると気づく。そうした気づきを経れば、仮に光が当たっていなくても、鑑賞者のまなざしの中で、主役・脇役の交替は起こる。なぜなら、微細な存在に意識が向くようになっているとき、ある物やある場所は、別の物や場所とは異なった固有性を帯びて見えるからである。あらゆるものが潜在的な主役となり、鑑賞者がまなざしを向けさえすれば、それらはつかの間の主役として立ち現れてくるようになるのである。
椎原の作品が与えるこうした体験は、日常生活においてあまり経験出来ないという意味で、非日常的なものなのかもしれない。しかし、椎原の作品に触れた体験は、我々の日常生活へと還元可能でもあるだろう。というのも、椎原の作品は、日常生活とは隔たったまったく異なった別の世界を作り出すことによってではなく、我々の世界に潜在する豊かさを明らかにすることによって成立しているからである。普段は意識することのなかった微細な存在に気づき、世界の細部の固有性を知る。椎原の作品は、そのような気づきを与え、我々の日常生活を支えてくれるように思われるのである。
参照展覧会
「椎原保:ephemera はかなきこと」 会期: 2010年9月28日(火)-2010年10月10日(日) 会場: GALLERY ARTISLONG(京都市中京区三条通堀川西入ル一筋目角)
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