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変成態-リアルな現代の物質性:Vol.2 揺れ動く物性 - 冨井大裕x中西信洋
レビュー
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2009年 8月 06日

fig. 2 冨井大裕≪wrap(color sample) #3≫2009年|画像提供:gallery αM|Copyright © Motohiro TOMII

fig. 1 中西信洋≪Boundary Model 6≫2006年|石膏|画像提供:gallery αM|Copyright © Nobuhiro NAKANISHI


fig. 3 中西信洋≪Layer Drawing - Aomori Sunrise≫2008年|レーザープリント、アクリル|画像提供:gallery αM|Copyright © Nobuhiro NAKANISHI


fig. 4 冨井大裕≪air(octagon)≫2009年|画像提供:gallery αM|Copyright © Motohiro TOMII

fig. 5 冨井大裕≪ゴールドフィンガー≫2007年|画像提供:gallery αM|Copyright © Motohiro TOMII


fig. 6 中西信洋≪Stripe Drawing on Wall / Cave≫2009年|鉛筆|画像提供:gallery αM|Copyright © Nobuhiro NAKANISHI

    建築中の工事現場の前を通るとき、「彫刻」を見てしまう。鉄骨や木枠が組まれたさまは建物の構造を露わにし、何ものでもない抽象的な物体として私たちの前に現れるからだろう。その様からは日頃目にする家屋やビルになるとはとても信じられない。そこには、家屋、居住空間を成立させるために物質を変成させる規律と技術があるだろう。gallery αMでの<「変成態-リアルな現代の物質性」Vol.2 揺れ動く物性>で見ることができる冨井大裕と中西信洋の作品もまた、物質の変成作用によって新たな「構造」を私たちに見せる。

    冨井大裕の作品は既製品であるスポンジを積み重ね、ストローをつなぎ合わせ、エアキャップの切片を重ね、無数の画鋲を壁に刺す。行われている「制作」行為はささやかでありながら、「彫刻」としか言えないものの選択と手触り、空間の成り立ちを持つ作品を制作している。

    中西信洋は鉛筆で無数の線を壁にひく『Stripe Drawing』シリーズ、透明フィルムにインクジェットプリントされた写真がレイヤー上に並びないしは重ねられる『Layer Drawing』シリーズ、箱形の石膏が虫食いのようにくり抜かれた『Boundary Model』シリーズ[fig. 1]などの作品がある。他にも絵画、映像など多様な表現を行っている中西だが、それらの作品からは空間の襞、余白を意図的に作り出す作品を制作してきたと言えるだろう。

    ここで冨井が加算的、中西が減算的な構造化をしていると仮定してみよう。彫刻の技法で言えば、冨井がモデリング、中西がカーヴィングと言えるだろうか。例えば、冨井は空間に物質が不可解なまでに容積を占めてしまう状況を作り出す。ギャラリー内に展示された既製品の集積は唐突で微妙な面積を占める。日常生活で見れば、何の変哲もない一つの物質が集積することで生み出す奇妙で不可解な空間は、物質が加算されることで生じる現象であり、もの自体が既製品のためユーモアを漂わせる。それは、今展でのビニールテープのさまざまな色が細く丸められ筒状になった≪wrap(color sample) #3≫(2009)[fig. 2]などでも見ることができるだろう。加えて、作品のスケールが「構造」の全体が見えるようなサイズであることも冨井作品の特徴である。冨井は身の丈のスケールで世界の在り様が変わることを示唆するのだ。

    対して、中西の作品は≪Layer Drawing - Aomori Sunrise≫(2008)[fig. 3]に見られるようにすき間や余白がある。アクリルにレーザープリントされた写真を鑑賞者は1枚1枚のプレートの全体を見ることはできず、つねに横ないし側面からしか見ることができない。この物質と物質の間にわずかな余白を設けることで生じる距離感が、鑑賞者の身体を搖動せざるを得ないポジションへと突き動かす。そう、中西の作品は一望できないのだ。だが、誤解してはならない。それは、イメージを一点から捕捉することができないという意味において、一望できないのだ。だからこそ、作品の全体をつかむことができず、自身の身体を空間内に移動しないことにはその全体像をつかむことができない。それゆえ、中西の作品はどこから見ても減算されてしまい、欠落が生じる。2007年の森美術館での<六本木クロッシング2007 未来への脈動>展における≪Layer Drawing - Sunrise≫(2007)では、アクリルプレートがカーブになるようにずらされて展示され、奥まで見通せない「構造」を有してさえいた。

    しかし、両者に共通しているのは物質の集積を通して「構造」を作り出していることだろう。冨井のエアキャップ、ハンマー、スポンジを並べたり、重ねたりする作品には、物質が集積することで形と色が「構造」として視覚化される。中西の≪Layer Drawing≫シリーズもまた透明アクリルが等間隔で並べられることで水平ないし垂直に「構造」を作り出す。どちらも作品から「構造」が視覚化されており、むしろ中西の作品などは「構造」を明確に鑑賞の制限、限定へと鑑賞者の身体を規定するなど鑑賞経験さえも構造化している。

    さらに、両者には「構造」から伺えるように建築的ないし仮設的な造形を作り上げている。冨井のエアキャップを重ね合わせた≪air(octagon)≫(2009)[fig. 4]は永続的な展示・保管という美術品保管に対し仮設的な身振りで存在しているし、中西の≪Stripe Drawing on Wall / Cave≫(2009) [fig. 5]は建築物の壁一面にストライプを描く仮設的な展示である。遠くから一見すると何が描かれているかがよく見えない希薄なドローイングからは壁を見ているのか、線を見ているのか、ネガとポジが反転したような展示は建築を導線として作品を見ることになる。

     だが、私たちが見るのは「建築」ではなく、「彫刻」である。もちろん両者の作品を彫刻におけるカーヴィング、モデリングで割り切れるものではなく、この議論も仮説(仮設)でしかない。しかし、冨井、中西の作品が同じ会場に展示されたことで、それぞれの「彫刻」が、ネガとポジのように組み合わさり、さらなる変成を経て私たちに「彫刻」への終わりなき問いへ向かわせるだろう。それこそ両者の作品が鑑賞者に与えるもっとも大きな変成作用に他ならない。

最終更新 2010年 7月 14日
 

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