インタビュー 東信:祈りとしての花|東信の立脚地 |
特集 |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2009年 5月 28日 |
1
2009年3月9日。AMPGでの計24回の発表に加え、その写真展「AMPG vol.24+1」を終えたばかりの東信にインタビューすべく、1月11日に南青山に移転して間もないAMKK(東信、花樹研究所)とJARDINS des FLEURSを訪れた。 地上一階と地下一階にそれぞれ広がる空間は、分断されながらもシルバーで統一されソリッドな空気が漂っている。中央には植物を保管するための巨大な冷蔵庫を、壁面にはアイデアや進行状況などを書き込むための三つの黒板を配置する地下の店舗は、一般的な花屋のイメージからはほど遠く、東の言葉を借りればそれはまるで肉屋のようである。移転前、麻布十番のオフィスと店舗がアンティーク調の建築と設えで落ち着いた雰囲気であったことを考えればその変化は大きいが、そこには植物を〈美しいもの〉〈かわいいもの〉というよりもまず〈血〉の通う生命、〈肉〉として扱う東の一貫した意識が反映されている。故郷である福岡は三菱地所アルティアムでの個展「AMPG vol.25」を目前に控えた東に、AMPGでの二年間と今後の展開について聞いた。 2まず、AMPG最後の展示である松を高速回転させた≪rolling≫[fig. 1]が3月1日に終了したあと、3月2日から4日までのわずか三日間開催された写真展、「AMPG vol.24+1 東信と26人のフォトグラファー」について触れたい。東は2007年4月から始めたプライベートギャラリー設立の段階から写真家に自作の撮影を依頼しており、今回の写真展は総計26人の写真家によって撮られたAMPGでの発表作品を展示したものである。※1 錚々たる写真家の名前が並ぶが、今回注目するのはその展示方法にほかならない。開催直前まで展示された≪rolling≫がギャラリー前室だけを使用し、奥のスペースは仕切りで塞がれていたため、私はそこで写真展の準備をしているのだろうと思っていた。だが初日の2日に訪れても、壁には何も掛けられていない。中央にある白いテーブルの上には鉢植えに加え黒い物体が置かれているが、それ以外は椅子を除いて何一つ見当たらない。だからテーブルの上に置かれている黒いそれこそ写真展の中身だということを聞いた時は、本当に驚いた。東はアクリルパネルを紙に見立て、その一枚一枚にプリントやネガフィルムを貼付けて綴じ、一冊の写真集を仕立て上げたのである。したがって鑑賞は一度に一人ないしは一組しかできず、しかもそのヴォリュームある体裁は「ページをめくる」と言う時に喚起される軽やかな類いのものではなく、むしろ「持ち上げる」と言う方が的を射ていた。このアイデアは写真展構想当初からあったのだろうか?
確かに通常の写真展の発想にはない展示方法だが、AMPGというギャラリーとそのあり方を考えると、これほど今回の展示に適した方法はなかった。それは東も言うようにAMPGが、とにかく鑑賞者に「丁寧」な見せ方をしてきたことに由来している。東はこう続ける。
綴じられているのがオリジナルプリントであることを考えれば、書店で購入した写真集を自宅の机上で紐解く感触とは違うかもしれない。けれどもきわめて近いことがそこでは行われていた。それは唯一のものでありながら、美術館やギャラリーで額に収まり手を触れることが許されない写真とは明らかに距離を異にしているのである。そしてバリエーションに富んだ写真は、こういう見方があったのか、とも、私はこうは見なかった、とも思わせるだろう。それゆえ写真家と鑑賞者の間にヒエラルキーは生まれない。写真はただ東の作品を振り返るためのタイムマシンとして存在する。ページを繰り思い出すのはかつてここを訪れた記憶である。 3私が初めてAMPGで東の作品を見たのは2008年5月の≪LEAF MAN≫[fig. 2]だった。以来一年にも満たないが、作品を見続け気づいたことがある。作品の大きな変化である。 松を明確な規則とコンセプトの下構成する≪式≫のシリーズや(2007年4月、2008年3月、同年10月)、植物を結束バンドやハンドクリップを用いて組み合わせた≪Botanical Sculpture≫のシリーズ(2008年2月、同年8月)[fig. 3, 4]。あるいは店舗で出た廃材を集め作成した≪Damned Ikebana≫(2007年5月)[fig. 5]や、ギャラリーを真っ赤にし、その中で会期中毎朝花を活けた≪狂った赤の向こう側≫(2007年7月)[fig. 6]に、茨城県守谷の畑で自身が栽培したダチュラを巨大な檻に閉じ込めた≪ダチュラ畑を捕まえろ≫(2007年10月)[fig. 7]。このように東は植物を用い、それらの新たな一面を創出するような実験的な試みをAMPGで続けてきた。しかし2008年11月の≪Punk tank garden≫[fig. 8]を端緒としてその動機付けが変化する。頭で考えるより先に身体が感じる衝動を形にしている、と言えばいいか。好きな植物だけを用いて作ったという鉢植えの集積からなる東流庭園はまさにその結実であり始まりであり、そこでは植物が爆破されることもなければ真空パックに入れられることもない。誤解しないで欲しいが東が試行錯誤をしなくなったわけではなく、ここで指摘するのは作品制作における東の意識の広がりである。
≪Punk tank garden≫に続く≪殺風景≫(2008年12月)[fig. 9]、≪hand vase≫(2009年1月)[fig. 10]、≪umechan≫(2009年1月)[fig. 11]、≪rolling≫(2009年2月)はそれぞれ、東の閃きないし植物に対する感情が素直に表れた作品群である。≪殺風景≫の冷蔵庫に入れられた白いグラジオラスの集合に一本だけ紛れた真っ赤なグラジオラスは、東の記憶であり脳内風景を象徴するものだった。≪hand vase≫のマネキンを用いて人間の手を花器に見立てた作品は、私たちが人に花を贈る時の感情の機微を手という形をもって表現したものだった。 ≪umechan≫の梅は今思い出しても美しい。一月末から二月上旬のわずか一週間という会期の中、徐々に咲いていく梅を、東は飴を提供しつつただ見せた。≪rolling≫の高速回転する松は風を切り、取り付けられた機材のためかドラムのような重厚な音を発していた。 それまでであれば、東を勅使河原蒼風(1900〜1979)や中川幸夫(1918〜)といった前衛いけばな作家の系譜に連ねようとすることもできただろう。勅使河原については東の否定的な意見を聞いたことがあるが、中川へのオマージュはAMPGで作品にして発表しているように(≪Rip a go go≫2008年6月[fig. 12])、その実験的で前衛的な作品はあの熱狂の時代と繋がっているのだ、と。けれども今や半世紀近く前の60年代、いけばなだけに限らない前衛美術家が幾度となく繰り返した「芸術とは何か?」という重く、そして芸術そのものの否定(反芸術)へと行き着いてしまった当て所ない問いとそこから生まれた作品は、東には該当しない。なぜなら東の作品は芸術の問題としてよりもまず、生きることそのものへ向けられているからである。
AMPG で発表された作品は植物という永続不能な生命を用いているために基本的にその場でしか体験できず、ゆえに鑑賞者の中にしか残りえない。ギャラリーを訪れるまでの清澄白河の下町の雰囲気や空気、匂いが知らず知らずの内にその時々の作品に抱いた感情と混ざり合いもするだろう。だから誰一人としてまったく同じ体験にはなりえず、東の作品は鑑賞者の個人史にそれぞれ書き留められるのがふさわしい。芸術とはそもそも、そういうものではなかったか。人々の記憶の積み重なりが記録となり、作品が保存可能であれば時間を経ても伝わっていくが、残っているものだけがすべてではない。美術史とは多くのものを削ぎ落とした先に現れる一つの軸でしかないのである。一方で無数の個人史があり、それぞれに愛おしい作品がある。東の作品は誰も所有することできない。だから記憶に留めたいと願う。 42009 年、東は初夏に直島で行われる大竹伸朗のプロジェクトへ参加し、その後AMGG(東信ゲリラギャラリー)を開始する。二メートル半の四角いテントを持ち世界各地を回り、その土地の植物を使った作品を作り見せていくという移動式のギャラリーである。最初の土地はアイスランド、その苔を使う。
そして2010年には、総計三百ページ、かつ一ページのサイズがB3という巨大な版型の作品集を刊行予定である。「雑誌作ってるんじゃないんだから」と笑い、「写真のクオリティも求めないといけないし、死ぬ気でやろうかなと思う」と言う東はまさにそのとおりに動くだろう。AMPGは幕を下ろしたが、言うまでもなく世界から花が消えてなくなるわけではない。東は生きているかぎり花を活け続けるに違いないし、私たちも望むかぎり花と生き続けることができる。そう考えれば、AMPGの終わりは終わりではない。 最後に東と花との関係が端的に表れている言葉を紹介したい。
脚註
|
最終更新 2016年 10月 11日 |