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マスジョ:ハンカチーフ
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 10月 05日

画像提供:gallery neutron copyright(c) Masujo

砂の起伏も、鏡に映る朧げな像も、全ては確かなものではなく存在する不確かなものたち。新たな局面に移ろうとするマスジョの新境地は、白い布そのものに内在する不安や希望、様々な感情をも想起させ、緊張感は平面に留まらない。

円形の特注パネル(ランバーコアという下地材を使用。集成材のようにすべて連結されていて、空洞が無い状態。)に岩絵具とカゼイン(牛乳やチーズなどにふくまれるリンタンパクの一種で、アルカリで中和することによって水溶化し、古くから塗料原料として使用される)を用いて描かれる日本画のような、抽象画のような不思議な世界。絵画的な手法だけでなく、鏡を彫って表層と映り込みによる虚実の境を見出したり、鳥取の砂を用いてのインスタレーションを行ったりと、表現の域は広く、それでいて密接に関連しあっている。

マスジョという作家名は本名に由来するのだが、「ジョ」は「女」なのだろうか、真偽の程は分からない。ただし作家が女性であることは書き記しておく。発表を始めた頃の作品には身体的なモチーフがしばしば登場し、女性ならではと思われる痛覚の喚起、包帯や黒髪を扱った作品も見受けられ、色彩においても血を連想させる赤(朱)が作品を特徴づけていたのは事実だからだ。しかしここ最近の制作を見ると、作品に表される事象は次第に客観性を帯び、女性らしさはあっても性を強く意識させるようでは無くなって来ている。絵画における画面も白を基調とし、随分と見やすくなった事は間違いない。

ただ、その変化をそのまま受け止めてしまっては(つまり作家の主張が和らぎ、あるいは薄れたと見るのは)危険である。マスジョの作品に潜在的にある痛覚とヒヤリとする冷気はその強さを増している。 色やモチーフによる絵画的インパクトよりも、今現在の制作においては素材(アイテム)とアイデアの組み合わせによる三次元的な印象の深まりを感じてしまうのは、果たして私だけだろうか。安易に物を取り入れては戯れるといった程度ではなく、マスジョの選んでくる素材(アイテム)にはマスジョの表現における本質的な必要性を疑う余地は無く、切実な物として存在し得る力がある。それは作家の思考における矛盾の無さが成せる業であり、作家の意図する表現が絵画という枠を超えても実現可能である事、絵画とインスタレーションあるいは立体表現との繋がりによって、虚構と現実の境が知らず知らずに崩落していることを指し示す。鏡も砂も、脆く儚いものの象徴であり、「本当の確かな像を作れない」。

そして今回使われる新たなアイテムはハンカチーフである。あるいはその名称にとらわれず、木の枝に引っかかった白い布きれと見てみる方が、さらにイメージの広がりを感じることが出来るかもしれない。ハンカチーフは作家の唯一の想い出のアイテムである一方、白い布は衣服や生地、三角巾など様々なものを含む象徴である。それらのイメージの誤差は作家によって当たり前に許容されながら、私達の心に潜むハンカチだけではない白い布の記憶を呼び覚まし、忘れていたはずの何かが脳裏を横切るのを微かに/しかし確かに感じさせることだろう。その漂白された白さは時に絶望的な無を意味し、時に人間の存在を証明し、あるいは人間の弱さを誘惑する。余談だが私が子供の頃にボーイスカウトで体験した山中ハイキングでは、事前に周到に用意された小石や枝による矢印が目印となるのだが、それすら用意出来ない道では白いテープあるいは布が巻かれており、それを見つけた時の安堵は今でも忘れられない感覚として残っている。それが正しい道を確認出来た事によるものなのか、あるいは時に孤独な道中で他者の存在を確かめられた事によるものかは分からないが…。私達はこの白い布を見つけるために歩いているのか、それとも白い布によって導かれているのか。

鳥取に生まれ、山陰地方を代表する伝承「因幡の白ウサギ」や「イザナギ・イザナミ」などを現代の日常に関連させてきた作家。今回の「ハンカチーフ」にハンカチ以外の伝承が潜んでいることを察するのは難しく無い。ただし必要以上に古来のストーリーに結びつけず、むしろ今現在の私達が感じるものこそが作家の期待するものである。微かな気配こそ確かな存在の証明だと定義するならば、マスジョの絵に描かれていないものの存在を否定することは出来ない。確かなものと不確かなものの距離は、案外とても近いのではないだろうか。/gallery neutron代表 石橋圭吾

全文提供: gallery neutron

最終更新 2009年 11月 18日
 

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