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鷹取雅一:ドローイングドローム
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 9月 25日

画像提供:児玉画廊

植物の蔓が複雑に絡み合うようなペーパーカットアウト、グラビアや広告写真などからイメージを引用した無数のドローイングやタブロー、そして空間を隈無く埋め尽くすそれらの圧倒的な量感、鷹取のインスタレーションは常に膨大なエネルギーを空間の内側へ凝縮させます。

今年初頭に開催された児玉画廊(京都)の個展では、空間いっぱいに白紙を腰ほどの高さの中空で水平に張り、湖か雲海のような平面を作り、その上部の空間では無数のドローイングが天井から吊り下げられ、下部空間には人が潜り込み、紙に空けられた穴から頭を時折覗かせて上部を伺い知る、、、構造的にも複雑で、敢えて不都合と圧迫を強いることで観る者に少なからず衝撃を与えるインスタレーションを発表しました。

それからおよそ半年を経て、東京での初個展となる今回、多面的な構造の児玉画廊|東京で、一体何が展開されるのか期待の高まる中での新作発表になります。京都では空間を区切り、比較的構造を明確にエリア分けしたのに対し、今回発表される新作のインスタレーションでは、紙にびっしりと描かれたドローイングを輪郭で細かく切り抜き、網状に繋ぎ合わせて、まるで壁を浸食していく一群の植物のように空間を覆ってしまいます。作品そのものがフェンスのように行く手を遮る障害ともなり、鑑賞する手段は設置された台の上に上り、そこから目を凝らしつつ見渡すことに限られます。細分化された絵画、とでも言うべきその切り抜きは、そもそも色彩や線が平面上に担っている役割を、実体化し、実際の空間において機能させます。

鷹取にとっては依然として、ドローイングであり平面の表現に他ならないにも関わらず、インスタレーションとしての総体は、単に「組み合わせ」や「配置」による直線的、平面的構成ではなく三次元的な構造を獲得し、壁面に対峙するのではなく空間を体感する鑑賞を要求するものです。

鷹取作品を鑑賞するにあたり、運動を伴わねばならないというある種の制約や、極度に高所に掛けられていたり近接して見る事の出来ない距離が隔てられているなど、一点づつの作品をじっくり鑑賞する事を敢えて否定するような矛盾した展示方法からは、現代美術においても往々にして存在するステレオタイプや慣習、それらに対する鷹取の懐疑が見て取れます。あるいはその反発を分かりやすく表現してみせる事で、常套手段に懐疑的である自身やそれに類する思考の美術全般に体する自己批判的な揶揄も含んでいるのかも知れません。

「ドローイングドローム」と作家の造語で題された今展、訳するとすれば「ドローイング広場」、また、作家の意図を汲んで意訳するなら、少し悪意を持って空間を支配するドローイングの塊、といった所でしょうか。見る者に対して、タダではその全容を明らかにしないある種の意地悪さが、一つの現象として現れているのだと言えるでしょう。

全文提供: 児玉画廊


会期: 2009年9月26日-2009年10月31日

最終更新 2009年 9月 26日
 

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