川辺ナホ+ジェーン・ブルッカー:Piece, Piece-ピース、ピース |
展覧会 |
執筆: カロンズネット編集3 |
公開日: 2014年 1月 29日 |
[作家コメント] ドローイングのために買ってきた大量の紙を目の前にして、そのマテリアルとしての美しさ、少し起毛してひんやりとした漆喰のような肌触り、陽の光に当てたときにできる柔らかなグレーのグラデーションに魅入ってしまい、長い間一本の線も引けなかったことがある。1200年代からイタリアで製造された、この柔らかな白さを産み出すための試行錯誤、その上にどうしても一本の線を引くことができない。。。こんな阿呆の禅問答のようなものではないにしろ、ジェーン・ブルッカーもマテリアルの前に佇んでしまったことがあるような気がしている。 20cmx30cmの白さの前で身動きできなったことのある人はそんなにいないかもしれないけれど、目の前の何でもないような光景に何故か不意に心を動かされた経験は誰にでもあるのではないだろうか。例えば、秋の深まった夕方少し前の時間帯、ほぼ真横から梢を通して差し入る光がきらきらと幾重にも影の模様を落ち葉の上に描いているような様子に。もし自分が1分でもその場にいるのが遅れたら、もしくは早すぎたら、陽の角度や風の向きが違ったら、見ることのできなかった景色。世界が事象の美しい絡まりとしてその姿を立ち上がらせる一瞬を視るのはたいていひとりだ。 ジェーンは、彼女の目前に現れた世界の一片をブロンズというマテリアルに変換させることで、そのピースを私たちの手の中に残す。未来永劫その創造物の形を留めようと古来から彫刻家が用いてきたブロンズという強固な物質性は、かえって、モティーフの儚さや私たちが今まさに対峙している世界の流動性を際立たせるのだ。ジェーンの小さなブロンズのオブジェは、弛間なく絡まってはほどけてゆく世界という織物の小さな結び目のようだ。 <開催に寄せて> ある期間、大阪にある24平方メートルに満たないスペースに、誰かが、何かを、意図を持って、運びこむ(または移動してくる、時にはその場で作られる)。 7年という未成熟な時間ではあるがその現場に立ち合ってきて、そして例えば運び込んだ本人はもとより全ての人が立ち去った後も、スペースに居続ける。そこ に来てそこから帰る一日を繰り返すことは、これはなかなか希有な仕事をやらせてもらっているな、と自覚するようになったのは、話が戻るが展覧会、それ自体 を問答し続けてきたことも確かにある。が、なにはともあれ、このスペースで新たな意味を生みだす1本の線やイメージや、小さな固まりや蓄積された作家の時 間に、純粋に驚いたり鷲掴みにされたり、静かにすとんと体の芯におさまったりと、実際に自分自身が動かされた経験があったからだと思う。 動かされるアーティストや作品との出会いはものすごく嬉しい。そのなかのひとり、川辺ナホには動かされ続きてきたと白状するしかない。普段ドイツのハンブ ルグを活動拠点にする作家なので、日本でもなんとかもっと彼女の作品に気づいてもらう機会をつくるにはどうすれば…という日々の先には、同じように気にか け見続け応援してくださっている方がいて、少しずつ国内での発表が増えてきたことを、喜んでいます。 このたび、福岡市美術館で開催される「想像しなおし」展の出展が決まり(1/5~2/23)、その会期に合わせて大阪でもプログラムをしようという話になった。プラン上で川辺より差し出された草案は、ジェーン・ブルッカーとの二人展だった。 実は5年ほど前に川辺から「これは以前ドイツでグループ展をした時のカタログです」と見せてもらった中に気にかかる作品があって、なんとそれが蓋をあければジェーン・ブルッカー氏のものだったことが分かり、話を進め、二人展の開催となった。 アーティスト二人が決めた展覧会名「Piece, Piece ーピース、ピース」が指し示すよう、インスタレーションでの発表を主とする二人の作品各々が、大阪にあるこの24平方メートルに満たないスペースに運びこ まれ、海や山を越えて移動し、響きはじめようとしています。オープニングの扉が開き、お越しくださる方々の目に触れ何かが動きだすという、その瞬間が間も なくやってきます。何度経験しても、それは繰り返しのようでいて、まったく初めての、どこにもない唯一の時なのです。 ポートギャラリーT 天野多佳子 2014年1月 ◎レセプション:1月24日[金] 17時より Naho Kawabe web 全文提供:Port Gallery T 会期:2014年1月25日(土)~2014年2月15日(土) |
最終更新 2014年 1月 25日 |