行千草:ダルメシアンは溶けたアイスのほとりに佇む |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2009年 6月 18日 |
ドンゴロスという素材をご存知だろうか。いかついプロレスラーの名前ではない。くすんだ茶色の生地で、コーヒー豆を入れている袋を想像して頂ければおよそお分かり頂けるのではないか。その粗い目地やボサボサした手触りはおよそ絵を描くためのものとは思えないのだが、行千草は実に綿密な配慮のもとにこれを支持体として取り入れ、制作を行っている。油画を基本とする彼女は、自身のスタイルである抽象表現を行うにあたり、通常のキャンバス地ではどこか収まりの悪さを感じたことから、紆余曲折の上にドンゴロスに出会う。最初は扱いにくさに手を焼いただろうが、次第に絵具の載せ方一つ、光の当たり方一つで異なる印象を与える素材に運命を感じ、引き込まれていく。そもそも布地自体が鈍い茶色のため、絵そのものがくぐもった印象を与えてしまうのだが、まさにその基調が行の描きたい世界のトーンに通じていること。目地の粗さのために、描かれた像がはっきりと像を結びきらないこと。離れて見れば一定の事象に辿り着くが、そこから近づくにつれて次第に像は輪郭やディテールを散逸させ、霧のように逃げていく様にも感じられる。 行の描く絵画そのものが、はっきりと像を結実させない抽象的な描き方から、次第にモチーフを明確に描き示すように変化する過程においても、やはりドンゴロスは支持体であり続ける。ゆらゆらと曖昧だった光景はまず、「縞」というパターンをくっきりと見せることによって変化を見せる。そこで登場したのがシマウマである。2007年の「縞月夜」(今回出展予定)はまさにその転機となった大作であり、おぼろ月夜の薄明かりの中で黄色と黒の縞を持つシマウマが中央に所在無さげに佇み、その周りを取り囲むようにまっすぐな木の幹のようなものが立ち並んでいる。奥にはシマウマの縞と呼応する模様をうっすらと浮かべた山がそびえ、逆にそれらの光景の手前、鑑賞者に近い位置にはシマウマの縞が黄色だけ抜き取られたような模様が(バナナの様に)前方へと投影されている。さらにいくつかの縞模様が画面に配置され、縞を身に着けるシマウマと、支持体を伴わない縞模様が穏やかな錯乱を画面に生じさせている。 同時期に、黒い水玉の斑点を持つダルメシアンも同様に扱われだす。シマウマの縞と対称的に、こちらは水玉模様をその象徴とし、「斑・母子」(2007年)では全体の白黒を反転させて描かれ、より模様の存在が浮き彫りにされている。こういった効果は時に「動物好き」と片付けられそうな作家の見られ方を正しい方向に導くのに有効である。さらに「湖畔のミーアキャット」(2007年)では、決して可愛いとは言えない不気味な動物が眼前ににゅっと現れているだけでも穏やかではないのだが、画面全体に霧が立ちこめ、ミーアキャット本体の模様も朧げにしか見えず、ドンゴロスの効果も相まって一層不安や焦燥を掻き立てる絵となっている。 そして2008年以降、鮮やかでポップなモチーフ達が一気に画面を支配するようになる。巻き寿司やマカロン、バームクーヘンにスパゲティ…。まさに色とりどりの食べ物である。それらは風景を奥に俯瞰する構図の中で風景そのものにとけ込みながら(擬態のように)、あるいは食べ物ではなく世界の一部だと主張するかのように、何食わぬ顔をして存在しているから面白い。さらにそれらの傍らにシマウマやダルメシアンが登場し、画面は賑やかさを増す。2009年の作では両者の関わり合いがさらに洗練され、少ない筆致で象徴的に配置される食べ物と動物が欠かせない関係として共存し、両者の佇まいからは哀愁さえ漂っているのが感じ取れる。画面上には縞や水玉がもはや完全に風景の一部として飲み込まれ、全てが一つになろうとしている。そう、この世界の事物の繋がりを縮図にしたように。私達の住む世界の、気づかぬ場面に、一瞬に潜む奇跡的な場面に遭遇したかのごとく。 私が子供の頃から好きなエッシャーの騙し絵には、単なるトリックだけではない美のエッセンスと世界の一端を示す哲学が存在する。行千草の描く世界にも、それが無いとどうして言えるだろう。 ※全文提供: neutron tokyo |
最終更新 2009年 8月 05日 |