向後兼一:世界と向き合うために |
展覧会 |
執筆: カロンズネット編集 |
公開日: 2010年 11月 04日 |
向後兼一の新作“世界と向き合うために”は、東京国立近代美術館で開催された『写真の現在3:臨界をめぐる6つの試論』以来のまとまった展示となります。工事現場や病院など、特定のモチーフに単純な画像処理を施すという従来からの手法を敷衍しつつ、これまでよりも整理された印象のイメージは、その背後に、私たちが生きている世界におけるイメージの在り方そのものについての疑問を浮上させることになります。 向後の手でチープなエフェクトを施された画像群は、そもそもイメージはそういう加工されたものに過ぎないという思いを強めることになります。現代人を取り巻いている種々のイメージが、完全に無垢な状態だという保証はなにもありません。いやむしろ、人間の手で加工されていないなどという可能性はあるのでしょうか。20世紀中頃、ギー・ドゥボールが看破したように、わたしたちは、イメージが伝える<現実>に取り囲まれ、まさに映画館の観衆のように、何も具体的な行動を起こせないように、ただただ深々とアームチェアーに身を沈ませるように強いられてきました。もちろん、<現実>からそうやって遠ざけられてしまうことも問題には違いないのですが、しかも、それらのイメージが、あまねく巧妙に手を加えられ、操作されたものだとしたらどうでしょうか。向後が投げかける疑問は決して小さくありません。 しかもさらには、私たちもまたそうした事態に手を貸しているのかもしれないのです。前作の展示に際し、希代の視覚生理学者、J.J.ギブソンを引きながら、「わたしたちは世界と対峙したとき、何でもかんでもそれを取り込みたくてうずうずしているのかもしれません。そしてまた、とりこんだ画像を、さしたる目的もなく、加工してみたくて我慢できないのでいるのかもしれません」と解説したのはそのためです。そうした見方が、穿ち過ぎた見方でないことは、Webに充満する、アノニムな映像や画像が物語ってくれます。イメージに対する加工や操作が、あっけなく露出した印象の向後の新作は、いままで以上に、観衆がまさに自身が耽溺するスペクタクルを生み出していることを示しているのかもしれません。そうした現実と向き合うこと。スペクタクルに対する能動性を取り戻すための方針は、ギー・ドゥボールの時代とは異なるはずです。眼前のイメージを巡る現実と向き合うことが、世界と向き合うことに接続していくことになるのかもしれません 関連トーク・イヴェント:"写真を巡る討議#02" ※全文提供: art & river bank 会期: 2010年10月30日(土)-2010年11月20日(土)13:00 - 19:00|月・火曜休廊 |
最終更新 2010年 10月 30日 |