河野通勢 展「河野通勢:大正の鬼才」 |
レビュー |
執筆: 瀧口 美香 |
公開日: 2008年 10月 14日 |
「楽園追放」という聖書の物語を表すために、通勢は故郷裾花川の風景を描いた[fig. 1]。伝統的なキリスト教絵画の「楽園追放」では、楽園の扉とか、炎の剣を持って扉を守るケルビムが描かれるのだが、通勢はそれらを描いていない。 キリストの降誕を描く一枚であるが、ここでも通勢は伝統的なイコノグラフィーに従っていない[fig. 2]。なにしろ神の母である処女マリアがヌードなのだから。展覧会カタログは、聖書の物語というよりギリシア神話を想起させる、と解説している。なぜ通勢は宗教画であるはずのキリストの降誕を、神話画のように仕立てあげたのだろうか。 「キリスト誕生礼拝の図」において暗示されていたように、キリストは磔にされて血を流す[fig. 3]。それにしても、この十字架はものすごく高い。十字架の足元に集う人々が、はるか下の方に小さく描かれているので、5階だてのビルの屋上から下を見下ろしている感じがする。キリストは、このまますーっと垂直に、高く天へと上げられてしまうかのようである。通勢はなぜこんなに高い十字架を描いたのだろうか。 通勢の素描の中に、その答えがあった。通勢は、ミケランジェロのフレスコ画を模写している[fig. 4]。ミケランジェロは、開いた本を掲げる巫女の姿を描いているが、通勢はこのポーズを借用したらしい。巫女を天使に置き換え、開いた本のかわりに、キリストの腰布をなびかせた。腰布の裾が、下からの風に吹き上げられるかのように舞い上がり、天使はぎこちない仕草でそれに触れる。なぜ通勢はわざわざこの天使をここに使ったのだろう。単にミケランジェロの真似をしたかったのだろうか。 いや、これは単なる模倣ではない。ギリシア語のプネウマということばには、「風」という意味と、「息」という意味の両方がある。神はかつて、アダムを創造した時、アダムに息を吹き入れて彼にいのちを与えた。それと同じように、ここでも神の息吹(風)が、キリストの腰布を吹き上げている。十字架上のキリストに今、復活の息が吹き込まれた。天使はこうして神の息を運ぶ。不自然な腰布、高すぎる十字架、ぎこちない天使はみな、見えない神の息を可視化するための工夫であった。 通勢は、「楽園追放」「降誕」「磔刑」といった聖書をめぐる物語の伝統的なイコノグラフィーを、自分のやり方で変えてしまった。通勢の作品は、一見正統な信仰の道を外れたもののように見えるかもしれない。しかしながらこうした意図的な逸脱は、聖書の物語の核心をかえって際立たせている。 * 図版出典 『大正の鬼才河野通勢展図録』美術館連絡協議会(2008年) 参照展覧会 展覧会名: 「河野通勢:大正の鬼才」 河野通勢 展 |
最終更新 2011年 3月 09日 |