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今村哲:いない
展覧会
執筆: カロンズネット編集   
公開日: 2010年 2月 08日

画像提供:モリユウギャラリー

今村は、様々な小説や史実、出来事などをつくりかえて新しい物語をつくったり、自身でまったく新しい物語をつくったりして、それをテーマとして絵画や立体を制作します。ときに今村は作品にテクストを添えるのですが、作品世界はわかりやすくなるどころか、どうしたことか逆に難解になっていきます。

「・・・テクストとイメージは、どちらかがどちらかに先行するとは断じがたい状態で、宙吊りにされる。ここでも、二つの軸の隣接によって、互いのずれの内に迷宮が発生するさまを認めることができるだろうか。」
石崎勝基(三重県立美術館今村哲展カタログより抜粋、2000年)

鑑賞者は、今村のテクストと作品イメージによって、オリジナルの物語自体の方にいつしか違和感を感じてしまっている自分にはっと気づかされることがあるのではないでしょうか。オリジナルが宙吊りになり、そして迷宮へと誘われる感覚は、今回の展覧会でも同様でしょう。

「・・・バルザックの像は、「マントの中で自慰をしている」だとか「馬鈴薯袋みたいだ」とかさんざけなされたあげく、誰にも引き取られず・・・」
今村哲

この文章と作品イメージから「いない」という展覧会タイトルの意味に至るには、展覧会全体の迷宮を実体験していただかなくてはなりません。 「孤独はいいものだという事を我々は認めざるを得ない。けれどもまた孤独はいいものだと話し合う事のできる相手を持つことはひとつの喜びである」と語ったバルザック。 視点を変えることにより、その意味が迷路のように錯綜します。バルザックは、同じ登場人物を別の小説のなかに登場させることで有名ですが、違った観点から見れば一人の人物でさえ違って見えてくるわけです。こうした手法を用いるバルザックは今村哲に近い感覚の持ち主であったかもしれません、いやいや、バルザックに今村が近いのかもしれません、バルザックのテクストは、この展覧会には「いない」いや「ない」のですが、なぜかバルザックのテクストが「ない」ことはないように感じさせられます。しかしバルザックの像の絵画はそこにあり・・・いつしか「ずれ」ていくイメージの連続の中で、虚と実が綯い交ぜになり、宙吊りとなって、新しい物語がうまれてくる、そんな展覧会となることでしょう。 今村という作家は、架空の作家をしたてあげ展覧会をするのではなく、自身の展覧会の中で登場させている作家や登場人物などと自らがいつしか入れ替わるような世界観をつくりだします。今村の文章を読まれた皆さんは、今村の誘いによって、すでに従来と異なったバルザックのイメージ、そして「いない」という展覧会のあるイメージを既にお持ちになり、もう展覧会の迷宮に一歩入っておられるのではないでしょうか。 MORI YU GALLERYでは6年ぶりとなる今村哲の作品展どうぞご高覧下さい。 今村哲
1961 ボストン生まれ、愛知県立芸術大学大学院美術学部油画卒 ※全文提供: モリユウギャラリー
最終更新 2010年 2月 13日
 

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