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イグノア・ユア・パースペクティブ27  油画考#2「アンチ抒情の絵画考」
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2014年 9月 04日

 

出展作家:大久保 薫 / 梶原航平 / 坂川 守 / 高石 晃 / 土屋裕央 / 中川トラヲ

児玉画廊|東京では8月23日(土)より 9月27日(土)まで、Kodama Gallery Collection - ignore your perspective 27 油画考#2「アンチ抒情の絵画考」を下記の通り開催する運びとなりました。今展覧会では、大久保 薫、梶原航平、坂川 守、高石 晃、土屋裕央、中川トラヲの6名のペインターを紹介致します。「油画考」は、グループショーのシリーズ「ignore your perspective」の中でも特に絵画について深く掘り下げるためのプログラムです。今回は、一見何かを物語るかのような絵画に見えながらも、実はそうしたウェットな抒情性とはコンセプト上ある一定の距離を置いている作家、という視点で作家を選び展覧会を構成しています。
大久保は肉体をモチーフとした絵画を制作しています。描き殴ったかのような強い筆触で主に人物(の裸体)を捉え、肉の量感を豊かに描出しています。制作過程においてはモデルを前にして描くということはなく、大抵の場合雑誌やネットで拾った画像、あるいは自らがポージングしたセルフポートレートを元にしています。そして、モチーフを得てもすぐにキャンバスに向かわず、まずはドローイングによる習作を重ねます。ここで留意すべきは、大久保にとってこのドローイングの過程が単なるエスキースではなく、実質フィニッシュワークに相当するということです。モチーフから感じられる生々しい肉体の存在感、それをドローイングの時点で描き切ってしまいます。ではキャンバス上で何を成すのかと言えば、フィニッシュワークたるドローイングの成果をただ誠実に写し取ることに徹します。まるで澱を濾過するかのように、意図や感情はドローイングの中に残し置いて、冷徹な態度でその熱情の痕だけをなぞるのです。
それによって、作者でも鑑賞者でもない、「肉体」というものに向けられた第三者的な目を大久保と我々が共有しながら絵と対峙することになります。
梶原は、軽く早い筆運びでモチーフの形質を一瞬で捉えることに長け、夢のワンシーンを切り取ったような不可思議な画面構成の作品は観る者の記憶に鮮烈な印象を残します。梶原が自分の絵を評して「フラッシュバック」あるいは「イメージを投げつける」と表現しているように、梶原の絵画は振り抜いた一本のストロークだけで多くを物語るような瞬間性を持っています。脳裡に瞬間的に浮かんでは消える無数のヴィジョンを、無造作に引っ掴んではキャンバスに叩き付けているかのようです。おそらく、その間に思慮を巡らせたり、感情を差し挟む余地はまるでないのでしょう。画面にはイメージが唐突に、自然現象のようにただ立ち現れています。それは物語るのではなくただ提示するのです。梶原の作品を前にして、観る者はそれを各々受け入れることだけを要求されます。
坂川は、ボディービルダーの隆々たる筋肉やたるんだ贅肉をモチーフに人体の「皮膚」や「肉」の質感を描出する絵画から出発し、やがて血管や神経組織と乾麺の絡まった構造のダブルイメージによるドローイング、人形や玩具などをモチーフに描いておいて絵具が生乾きのうちにラップでぺったりと押しつぶしてマーブル状にしてしまうペインティグ、最終的には聖書の一節を題材にその奇跡的な現象をフレームに張らない布地に描出するタペストリー作品など、様々に表現を変化させてきました。しかしながら、坂川の作品はそうしたテーマの変遷とは別に、一貫して生々しいまでの質感の表現に固執しています。そして、その追い続けている質感とは、見るものが直感的に「生」を感じる何かであります。例えば、溶かした蝋や光沢メディウムを使用した肉感的で艶やかなマチエール、キャンバスにじんわりと滲んでいくまるで傷とガーゼを想起させるような染みのような描写。それはボディービルダーのようなモチーフが与える強烈な印象とは別の、ある種の坂川のルールのようなものであり、子供のおもちゃなど可愛らしくポップなものや聖書の逸話などを題材にしてもそれは変わることなく、むしろ生命とは関係のない題材であればある程隠喩としての生々しさを感じさせるのです。
高石の作品は、児玉画廊|東京での個展「シャンポリオンのような人」(2013)で発表した作品群のように、一見夢の中で見る不条理な現象のような情景を描いたペインティングのように思えます。しかし、単にシュールさや不思議な絵を目指している訳ではありません。絵画の空間性、イメージに暗号的な示唆を持たせること、そうしたテーマに沿った極めて構成的な絵画制作を行っています。例えばモチーフとして頻繁に描かれている蛇のような一本の線、これはキャンバスの中に空間の起点としてまず最初に描かれるものです。
無垢のキャンバスを世界の始まりに見立てるならば、そこにロゴスを与えるのです。つまりその線がキャンバス内にこれから描かれるであろう世界の最初の存在であり、最初の概念であり、言語であり尺度であるのです。線のうねりからキャンバス内のパースペクティブを定めることもできるし、線を綱と見るか糸と見るかで周囲に描くものの相対的な尺度が変わり、S状にうねる線ならばアルファベットの「S」として文章の一部として描くことさえできる、というのです。この「何にでもなり得るもの」を使って高石は無限に異世界の口を開きこそしますが、それは鑑賞者への新たなロジックとそれを解析するための暗号提示であって異世界譚を自ら語るためにではありません。鑑賞者は分析と理解を求められ、高石の描く世界に浸る余裕はないのです。
土屋は今回児玉画廊で初紹介となります。意識が失われる瞬間の景色、死刑場、神話において神や巨人の肉体の一部から天地が創造される場面など、主に死生観をテーマにした絵画を制作しています。
人の生き死にという、最もドラマチックな主題をもって絵画制作に臨んでいるにも関わらず、土屋の作品から激情やセンチメンタルな何かを想起することはありません。土屋が生きることの喜びであるだとか、死ぬことへの畏怖や悲しみ、といった感情によって筆を動かしているのではないからです。死を迎える瞬間景色はどのように見えるだろうか、徐々に視界が狭まり行く中で最後に残るのは何か、自問を重ねつつキャンバス上にイメージを醸成させていくことによって生と死を分つ境い目を見定め、絵画でならその領域に踏み込んでいけるであろうという可能性に対する実践的アプローチなのです。
中川の作品は、激しいストロークや、色彩の洪水のような画面から、最も叙情的な作品であると見られるかもしれません。しかし、中川こそ、叙情性とは無縁の制作をしています。キャンバスのシミ、合板の木目など、きっかけになるものをルーズに辿って筆を動かすことで絵画が始まります。そして、その自分の意図や意識とは無関係の線が次なるきっかけとなり、それをまた辿るようにして筆を重ねていくのです。色彩についても、あえて自分の好まぬ色を使うことで無意識的にそれを忌避する感覚を逆手に利用して絵画を自分の意図せぬ方向へ押しやっていきます。次第に自ずと形を成していく「何でもない」図像、それは制作者たる中川自身とも乖離した誰のものとも知れぬイメージであり、見る人によって人物のようにも風景のようにも抽象画のようにも見える正体不明の絵画であるのです。
無論、観る側が彼らの作品に叙情性を見出すことはあって然るべきことです。なぜなら、彼らの作品を前にした時、そこに何らかの感情やストーリーを想起することは容易いからです。しかし、今回の展覧会においては、感情の描出という点においては作家はまるで意図しておらず、寧ろ方法論やプロセスの絵画であること、表出している絵画面はその行程の結果でのみあるということを前提に作品と相対するべきなのです。まして、抒情ではない、ならば抒事であろう、という短絡的な考えは捨てねばなりません。彼らは事実を語る訳でもなく、ましてロマンスを歌う訳でもありません。一見叙情的な表層の裏で彼らは、絵画であることが新たな事象となり得ることを示すべく独自の道程を拓かんとしています。
つきましては、本状をご覧の上展覧会をご高覧賜りますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。

敬具
2014年8月
児玉画廊 小林 健


全文提供:児玉画廊 | 東京
会期:2014年8月23日(土)~2014年9月27日(土)
時間:11:00 - 19:00
休日:日・月曜、祝日
会場:児玉画廊 | 東京
最終更新 2014年 8月 23日
 

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