MOTアニュアル2010:装飾 |
レビュー |
執筆: 田中 みずき |
公開日: 2010年 3月 15日 |
2001年と2009年を除き、1999年から東京都現代美術館(東京・木場)で毎年開かれてきた展覧会「MOTアニュアル」は、時代を切り結ぶ若手作家を紹介してきた。10回目の今回は、「装飾」をテーマに、黒田潔、森淳一、野老朝雄、青木克世、山本基、小川敦生、水田寛、松本尚、塩保朋子、横内賢太郎の10人が出品している。装飾というテーマを掲げているが、そもそも「装飾」とは何か。『広辞苑』を引くと、「美しくよそおいかざること。また、そのかざり、よそおい。」とある。しかし、美術の世界ではまた違うニュアンスを含むだろう。会場入口のパネルに企画者からの挨拶文が以下のように記されている。 確かに、現代の美術界において「装飾」は軽視されてきたと言えるだろう。※1今展では、そんな現状をも踏まえた上で新たな視点から装飾を捉えている。出品作は、三つの視点から捉えることができるかもしれない。 まず、植物や動物等、古典的とも言えるモチーフを使った作品群。古くから世界各地で良く使われてきた文様等の流れの上にあると言えるが、本展では文様のような記号化では終わらない。例えば、アメリカンコミック調のポップな線でイラストを描いてきた黒田潔による壁画[fig. 1]。展示室の壁全面に木や花、梟、蜘蛛等を描いた《森の目》と、一部彩色を施した《風の通り道》は、植物と動物を美しい曲線に落とし込んでいる。しかし、大きな生き物たちに囲まれる状況は、美しいだけでなく威圧感をも感じさせる。子供の頃に森に迷い込んだ時の感覚だ。また、森淳一は写実的な木の枝の立体や、草の文様のようなものが平面的に広がる作品を繊細な木彫で作った。加えて、髑髏のようなものを写した白黒の写真や、みつ編みの少女の頭部と手にナッツや水中植物をちりばめ、白色のアクリル絵具で覆った作品等も出品[fig. 2]。素材と緻密な表現から儚さが窺え、死を意識させる。青木克世は、スリップという化粧土を使った白い陶磁でゴシック調のデコラティブなステッキや髑髏、額縁を出品した[fig. 3]。額縁の中には、梟や、花や植物、そして内臓のようなものを描き焼き付けたタイル。展示室奥のほうに二つ並んだ髑髏は阿吽像のようでもあるが、ディティールは西洋的だ。印象に強く残るのは、生物のおぞましさや、得体の知れぬものへの恐怖と畏敬である。そのほか、小川敦生は58×58×5cmの透明な石鹸に、草か蔦(つた)のような文様を彫りこんで並べた[fig. 4]。石鹸という、時とともに溶ける素材に植物の形を彫り付け、素材の刹那と生物を記号化した文様との対比が鮮明になっている。これ等の作品は、植物や動物といったモチーフが装飾の「模様」に使われるものと同じでも、モチーフの意味を取り払うわけではない。モチーフそのものの生死を意識させる表現が使われていて、新鮮だ。 次に見られるのが、引用という手法で装飾を捉えた作品である。好例が水田寛[fig. 5]。マンションに並ぶベランダや、歩道のタイル、道路を俯瞰して眺めた際の車列などを、油彩のシンプルな線で表現した作品だ。モチーフが輪郭だけに削ぎ落とされ抽象化し、模様のように見えてくる。装飾史で植物などを文様にしてきた方法を使い、現代の生活で見える風景を装飾へと変化させた。松本尚は淡い色と穏やかなタッチの油彩で、絨毯の柄のような文様、高齢の女性、そして物語世界に出てくる妖精や人形を組み合わせた[fig. 6]。文様モチーフは過去に見たものとして画中に入り込み、ノスタルジーさえ感じさせる。鑑賞者に受容されていた「装飾」は本作を通じて再受容される。横内賢太郎は、どこかで見たような風景の上に黄色やピンク等ホログラムのような彩色を施した絵画を出品した[fig. 7]。ここで描かれている風景は、オークション・カタログから引用したものらしい。絵画を出品した3人の作家は、言わば過去のものであった「装飾」の技法やイメージを引用し、現代に当てはめたり、過去を振り返るモチーフとして使用したりして、時代を対比させる作品を生んでいた。 最後に見られるのは、空間を装飾する作品である。飾る対象は、物ではない。正方形の紙パーツを繋ぎ、幾何学的な立体に組み立てた《BUILDVOID習作》[fig. 8]シリーズを生んだ野老朝雄の出品作では、ガラステーブル上に載せられた作品が印象的だった。ぶら下がる紐を鑑賞者がひくと、それまで束ねられていたパーツが宙吊りになり、立体的に広がるのだ。何も無かった空間が飾られ、壁に映される影も美しい姿だった。また、山本基の、展示室の床全体に、塩を置いて幾何学的な迷路のような図像を生み出した作品も強烈だった[fig. 9]。塩という素材が静謐な印象を与え、宗教的な感覚さえ呼び起こすが、これも確かに「装飾」である。身体の回りに生まれた空間を呆然と見廻してしまった。そして、圧巻だったのが塩保朋子だ。天井から、650×356cmの見上げるような白い紙が下げられている[fig. 10]。これに細い線の切れ込みが入り、鳳凰のような図柄が現れる。光が当たり壁に影で絵がうかびあがるのを、ただ、ひたすら見詰めてしまう。空間が圧倒的に装飾されているように感じられた。 これは「装飾」なのだろうかと疑問に思う作品もあったが、そう問い直しながら自分なりの装飾観を再考することもまた一つの楽しみだろう。見過ごされてきた「装飾」は、新たな意味を持ち始めたようだ。その新しさを見せた学芸員の誘導に沿って、新しい視点の誕生の現場に出会ってみて欲しい。 脚注
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最終更新 2010年 7月 04日 |