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成層圏Vol.6:「私」のゆくえ 村山悟郎
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2011年 11月 10日

村山悟郎《wall drawing / coupling》2010 | photo by Ken Kato. supported by Shiseido.| Copyright© Goro Murayama | 画像提供:gallery αM

フォルム・生命・システム
-田中正之
村山の作品は、新たなフォルムの問題を提起している。
フォルムの新たなあり方というほうが適切だろうか。少し美術史的に語ってみよう。形態には有機体的生命が宿っている。アンリ・フォションやパウル・クレー、あるいはジャン・アルプやマーク・ロスコなどなど、少なくとも20世紀以降、そう考えてきた画家や理論家は少なくない。「形には、有機体の原理と激しい感情とが認められる」。これはロスコの言葉だが、彼にしたがえば、フォルムとは単に生命を持つだけなのではなく、感情をもはらむものであった。1950年代までは、こういった、ある意味ではあまりに「人間的な」、生命体的(有機体的)形態観が広まっていた。それに対して1960年代半ばになると、生命的側面が徹底的に排除されたシステミック・ペインティングが注目されるようになり、極端に還元主義的な(抽象的な)基本的構造体(プライマリー・ストラクチャー)のみから成立する、何らの動感のない静的な作品が支配的になっていく。それは無機的な形態の単純かつ整然とした秩序に基づいているように見えるがためにシステム的だと言われた(そこでは作者の生命も排除されているかのようだ)。そしてそれは、あまりに非生命的であったがために、「死」を連想させるものでもあった。いわゆるポスト・ミニマリズムの美術では、この非生命性の克服が、ある意味とても奇妙に図られ、「エキセントリック・アブストラクション」と呼ばれもした。基本的な幾何学的な(工業的とも言える)抽象的形態に、有機的な印象を与える形態や素材が組み合わされた作品が登場することになる。それら二種類の形態は、しかし、決して調和的に混じり合うことはなく、矛盾を矛盾のままに曝け出し、二律背反的姿を隠すことなく示していた。そこでは「死」と「生」とが同時に提示されることになる。

このようなコンテクストのなかに村山の作品を置いてみると、彼の作品におけるフォルムの生命の問題が明瞭な輪郭線をもって浮かび上がってくる。システム的でありながら無機的にはならず、形態が自己生産し続ける生命性を持つ。ポスト・ミニマリズムがはらんでいた二律背反性がここには見られない。そして、村山自身が語るように、その発想の源泉には、自己生産のシステムを論じたオートポイエーシスがある。しかし、それは本来システム自体が自己決定をするシステムのはずだ。だとすれば、村山の作品のなかでは、作者はいったいどこにいるのだろうか?

田中正之企画:<「私」のゆくえ>
目に見えているものは、とりあえず目の前にあるのだから確実に存在しているはずだ。だから、今自分の隣りにいる人にも、同じようにそれは見えているはずだ。ふつうは、そんなことは考えもしないのだが、しかし、そう考えた途端、少し不安になってはこないだろうか。本当に隣りにいる人にも同じものが見えているのだろうか。目の前にあるものは、本当にあるのだろうか。そうやってすべてのものの存在を疑っていったときに、しかし最終的にその存在が疑いえないものがたったひとつ残る。つまり、そう考えている(疑っている)自分の意識そのものは、確実にあるはずなのではないか。「私は確かに今考えているのだから、考えている私のこの意識の存在は確実だ」「我思う、ゆえに我あり」だと。そう考えて手に入れられる「主体」の観念は、すべての存在に先立つものとなり、そして私の意識以外のすべてのものは、その存在を私によって根拠付けられるものとなる。

ところが、考えている私が、考えるために使っている言葉は、実は自分より「先に」存在していたものだ(言葉は、私自身が発明したものではない)。とすれば、私だって、たとえば言葉によって存在を与えられ、作られたものだということになる。「私」は、作られるものなのだ。では、いったい「私」はどうやって、どんなものに作られるのか。「私」を作る作業に、私自身は参加できるのか。「私」の自明性の揺らぎ、あるいは「私」の存在の見えにくさが、作品制作の重要な動機となったとき、なかには、作品によって虚構の自明性を構築しようとするものもあるかもしれない(たとえば、「これが私です」と示すようなイラストレーション的な絵画作品)。しかし他方では、その揺らぎのなかに自らを投企し、不可視性そのものや、見えないものを可視化できるかもしれない可能性(との格闘)に賭けるものもあるだろう。そのように「私」をくぐりつつ立ち現われてくるイメージの多様な試みのなかに、現在の美術のあり方のひとつの様相を見ることができるだろう。

「行為する私」とは何だろうか?そして、私たちはそれをどのようにして知ることができるだろうか?私はこの問いにたいして、「学習的ドリフト」、「ドローイング/カップリング」、「変態のダイアグラム」という3つの画像的解釈を示したい。「私」とは、行為のさなかに絶えず自己修正的に作動している。例えば、ペインターが画面に筆をいれるとき、その一筆一筆は前に形成された形態や色彩に制御されている。そのような観点においては、簡便にいえば、「私」とは一つのプロセス(動態)である。人間の行動を理解するためには、一つの個体に主体性を同定するのではなく、その外側の環境世界に広がる情報経路をまるごと含めたプロセスとして考える必要がある、とベイトソンも述べている。

しかし、「私」を絶えず行為のさなかにあるプロセスとしてみたとき、対象として観察することが困難になってくる。自己は、知覚によって新たな自己を産出しつづけ、常にスライドしてゆくからである。よって、これまでこのプロセスへの理解は、現象学のように私によって「私」が内感され、そこから定式化された記述の系として織り上げられてきた。それが「私」というプロセスに照応されるのである。ただ、この理解はテクストの線形性を免れることはできない。では、そこからさらに踏み出してゆくにはどうすればよいのか?

私はフルッサーの「テクノ画像」(Techno image)という概念を経由することによって、「私」というプロセスの画像的解釈を試みる。「テクノ画像」とは、世界から言語が論理や関数的な関係性によってとりだす意味や概念、それを画像化する。いいかえれば「事態」を示す平面である。よって、それは世界を直接的に描写する絵とは根本的に異なっている。「テクノ画像」をつくり出すのは装置であるとフルッサーは述べているが、私は身体行為を含むコード化されたシステムを用いて、これを実践したい。それによって、「私」というプロセスの線形的な理解から、平面的な解釈へとシフトする。

ではそのプロセスとは、どのような作動のモードが考えられるだろうか?この展覧会では3つの動態を提示する。「ドリフト Drift」、「カップリング Coupling」、「変態Metamorphose」である。これらは河本英夫氏のオートポイエーシスの諸概念が大きな参照項になっている。オートポイエーシスの画像的解釈によって、「私」というプロセスの別様の理解の局面を開いてゆきたい。それが、私が投企する“「私」のゆくえ”である。
-村山悟郎

村山悟郎 むらやま・ごろう
1983年東京生まれ。2009-2012年東京芸術大学大学院修士課程 美術研究科絵画専攻壁画第一研究室に在籍。2010年10月から2011年10月までロンドン芸術大学 チェルシーカレッジ MA ファインアートコースに留学。
自らがつくったルールのもとに、麻紐を編み、下地を塗り、ペインティングを施すという行為を続けながら創造世界を増殖させていく。主な個展に2010年「第4回シセイドウアートエッグ「絵画的主体の再魔術化」」(資生堂ギャラリー、東京)、グループ展に2009年「MOTコレクション・MOTで見る夢」(東京都現代美術館、東京)など。

※全文提供: gallery αM


会期: 2011年12月17日(土)~2012年2月4日(土)(12/25~1/9休)
会場: gallery αM
アーティストトーク: 2011年12月17日(土)16:00~17:00
トークイベント「アートとオートポイエーシスは出会えるか?」: 2012年1月14日(土)13:30~15:30 予約不要 田中正之x村山悟郎x(ゲスト)河本英夫

最終更新 2011年 12月 17日
 

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