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成層圏Vol.4:松川はり×川北ゆう『「私」のゆくえ Tracing the ”Self”』
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2011年 7月 20日

左:松川はり《Aqua mirror-t》(部分)2011 | テトロン、水干、岩絵具、ペン、紙 | 右:川北ゆう《2011.6.26》(部分)2011 | パネル、油彩 | 画像提供:gallery αM

【キュレーターコメント】「たゆたえども沈まず」、あるいは「わたし」の危うさについて -田中正之
川北と松川ふたりそれぞれの作品を見たときに、「たゆたえども沈まず」という言葉が想起された。いささか唐突に思われるかもしれない。パリ市の紋章に記された、よく知られた銘文で、もともとはセーヌ川を航行する水運のための帆船が、荒れた川の激しい波にどれほど揺さぶられようとも、決して沈むことはないという意味である。水との格闘がもたらす緊張状態、それをとりあえず言い表した言葉として真っ先に思い起こされた。

川北の作品の表面は、流麗で繊細な線によって覆われている。悠久な水の流れを見事に写しとったかのような線は、絶妙なイリュージョニズムを生みだし、物質性を超え、時間性をも超越して、静謐で幽玄な自然の世界を思い起こさせる。したがって、一見しただけでは、そこには緊迫した水との関わりは見受けられない。しかし、彼女の作品は文字通り身体的に水と渡り合うことによって生み出されている。よどみなく流れるように見える線は、実は振り乱された髪のような激しい動きの痕跡でもある。そして、その緊張をはらんだ水と身体との格闘の瞬間は、自らの主体性の保持と喪失という両義的な危ういバランスのもとでの、はりつめた瞬間となっている。水をコントロールすることによって自分の主体性は保持されるかもしれないが、一方で自分のコントールを離れて水は自由に迸り、自らの主体性は揺るがされる。彼女の作品からは、この緊迫感を感じとらなければならない。

水とは、そもそも両義的な存在だ。船を沈ませもするが、そもそも水がなければ船は浮かぶことができない。水が命を奪うこともあれば、命を育む羊水にもなる。この両極の間に横たわる境界面にこそ、川北と松川の二人の作品はある。 この境界面を、水面としてとらえているのが松川である。水面は、「わたし」をふたつに引き割く。水面に映った自らの姿に恋したナルキッソスのように、水面は他者としての自分を現出させる。「わたし」が「わたし」でなくなる境界線。水のうえから水面を見つめる自分と、水の中から水面を見つめる自分は、目に見える世界がまったく違って見えることからも想起されるかもしれないが、まったく異なる自分なのかもしれない。彼女の作品の透き通るような青さもまた、透明になり、物質的存在感を喪失しそうな「わたし」をメタフォリカルに示しているように見える。透明になった「わたし」の背後に、もうひとりの「わたし」が透けて見えるかのようだ。実際、松川の作品の表面の向こうには、もうひとつの表面が潜み、表側の存在を脅かしている。

「わたし」というものは、いくら消そうと思ったところでそう簡単に消えるものでもない。自分というものは、そう易々と沈んでしまうものでもない。とすれば、問題は、流動化されつつもつねに回帰し、安定的であろうとする「わたし」を、本当の私だと信じてしまうことの危うさのほうにあるだろう。「わたし」の欠落を埋め合わせるかのように回帰してくるまた別の「わたし」は、いったい何者なのか、とむしろ問わなければならいないのだ。

松川はり Hali MATSUKAWA
1979年大阪府生まれ。2005年武蔵野美術造形学部日本画学科卒業。それぞれに描いた絹本と紙本を重ねあわせることにより、独特の浮遊感と奥行を生みだす。主な個展に2007年、2005年「松川はり展」(GALLERY b. TOKYO、東京)、主なグループ展に2011年「Emerging Contemporary Artists of Japan」(2/11 Gallery、NY)、2010 年「ART TAIPEI 2010」(台湾)2009年「時々―jiji」(TURNER GALLERY、東京)など。

【作家コメント】
通常、わたしたちは無意識に自分の身体に中心を定めている。ふとしたことをきっかけに、意識の定まる着地点のようなものを失うと、自分と周囲の境界はなくなり、どこまでも均一だ。それは異常な世界に感じられるが、原子レベルでは、『私』という物質も、空間という空気も、そんなには違いのない物質の連なりなのかも知れない。

地上から見る水面は、揺らぎ実像をゆがませるが、水中から見る水面は、そこに在るはずのない虚像をより鮮明に映す。それは、視覚に頼りきったリアルな世界で、今まで認識していたものを反転させる。

川北ゆう Yu KAWAKITA
1983年京都府生まれ。2006年京都精華大学芸術学部造形学科洋画分野卒業。水面を漂うような繊細かつ錯綜した線で構成された画面を描いていく。主な個展に2010年「ゆらぎのあと 景色をそそぐ」(INAX ギャラリー2、東京)、2009年「今日までを想う」(studio90 、京都)など。

【作家コメント】
私は画面上に私の居場所を確定しない。それは自然現象を利用した形を作品のひとつの定義としているからである。 その意識下にいるため、自分を半分押し殺した方法をとっていた。 しかし、画面と自分が対峙しているという何にも変えられない事実は否定できず、 そこにこの営為の本質があるのではないだろうかと考えるようになった。

なぜ私は自らの跡を残し、そしてそれを否定してきたのだろう。 絵画として考えた時に、明らかにしたくないが、そこにある確かな実像。 頭での思考から体での行為へと純化していく時間が真意をもった時間なのである。 それを水の動きへと反映させ透過させてきた。こうした揺れ続ける境界に居ながら、より私という軸で捉えてみたい。

全文提供: gallery αM


会期: 2011年9月3日(土)-2011年10月8日(土)
会場: gallery αM
アーティストトーク: 2011年9月3日(土)16:00 - 17:00

最終更新 2011年 9月 03日
 

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