この世界とのつながりかた Touch the World |
レビュー |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2009年 12月 18日 |
親子だろうか。若い女性一人と、女の子二人。彼女たちがいるのは一軒の家の中である。女性に連れられ、子供たちは階段を上がって行く。ある部屋に辿り着き、まず子供たちの関心を引いたのはアンティーク調の椅子一脚だ。二人は我先にと椅子の取り合いである。そこに、女性があるものへと二人の注目を促す。白い壁にぽかりと空いた穴である。子供の身長に比して随分高いところにあるが、しかし丁寧に踏み台が用意されている。気づいてしまった子供たちの、椅子の次の関心はこの穴である。踏み上がっては下りての繰り返し。それが何なのか、穴に夢中になる子供たちの関心をさらに引くようにそこからトランペットの音色が響き始める。 若い家族のホームビデオのようなこの映像作品は、奥村雄樹の《エコ——ズーリナとサヨのために(B)》(2007年)[fig. 2]。(B)とあるように同名の(A) [fig. 1]とセットで一作品である。それらの映像は若干の距離を隔て、遠すぎない程度の間隔で展示されることが好ましいようだ。(A)の映像は、まさに子供たちが穴から聴いているトランペットを吹く男性の姿が映し出されているのである。今回の展示では(A)は階段の壁面に直接、(B)はその階段を上がった先の展示室の小さなモニターに映し出され、それぞれはまさしく同じ時間が流れている。しばらくして女性に促され別の部屋—トランペットを吹いている男性がいる—へと向かう子供たちが迎える種明かしの瞬間は、(A)(B)の世界がつながり、爽やかな感動が訪れる場面だ。 障害のある人の作品を核に据え、それらを一般のアーティストの作品と共に展示することを目的に2004年6月に設立されたオルタナティヴスペースがボーダレス•アートミュージアム NO-MAだ。今回の企画展、「この世界とのつながりかた Touch the World」は東京国立近代美術館研究員の保坂健二朗をキュレーターに迎え、様々な立場にいる作り手の作品が集められている。作家は秋葉シスイ、奥村雄樹、川内倫子、仲澄子、橋口浩幸、松尾吉人、松本寛庸、森田浩彰の計八名であり、平面、映像、インスタレーションとジャンルは幅広い。「この世界とのつながりかた」とは幾分抽象的なタイトルだが、その名の下に集められた作品はいずれも個人やその日常、つまり作家自身の近しいところから制作の端を発しているものが多い。先の《エコーズ——リナとサヨのために》はその中でもとりわけ美しい映像作品である。 作品の一部を紹介しよう。森田浩彰の映像作品《Clockwise》(2005-2008年)には、鉛筆、ペンチ、定規、消しゴム、ライター、紙テープなど日用品の散乱した様子が定点観測で映っている。最初はただ散乱しているだけに見えるが、実はそれらがデジタル表記で現在の「時間」を形作っている。時間が進むたびに日用品の場所がかたかたと入れ替わる仕組みだ。映像があらわす時間と、鑑賞者がいる今・ここの時間がつながっているのはとても不思議だ。松本寛庸の作品[fig. 3]は画面を色とかたちが覆い尽くしている。モチーフは異なれどもいずれも執拗なまでの描写に驚くが、か細い線とカラフルな色遣いのために草間彌生やできやよいのような空間に対する恐怖を作品は感じさせない。視点が定まる場所がなく、私の目は画面を滑るようにどこまでも進む。その心地よさは筆舌し難い。橋口浩幸の画面にはシュルレアリスム的と言える摩訶不思議な光景が描かれている。だが、それらがまったく自然であるかのように描かれているのはなぜだろうか。描くものに迷いがないのかもしれない。他人にとっては荒唐無稽でも、作家にとっては大事な光景なのだとそれらの作品は語りかけているように見える。川内倫子の《Cui Cui》(2005年)はNO-MAではなく同館から徒歩三分ほどの尾賀商店なる場所で展示された。《Cui Cui》は1992年から2005年までの13年間、川内が日常的に撮影した家族写真をまとめたものである。数秒間隔でスライドする写真には生の喜びも死の哀しみも写っている。けれどもすべてが輝いているのは、すべてを引っ括めての生きることに対する肯定が根底にあるからに違いない。 つらつらと書いてしまったが今回の企画は、あるいはこのスペースでの企画は常にそうなのか初めて訪れたからわからないが、最初から最後までただ作品を見せようとしていたから私は作品を見ることだけに集中できた。会場には押し付けがましい解説はなく、私たちに明かされているのは作品の作者、タイトル、制作年という必要最低限のキャプションのみである(素材すら表記されていない!)。受付で手渡される会場案内には作家の紹介が簡単になされているが、そこに書かれているのもあくまで作品を見る上でのささやかなヒントのようなものであり、作家の生年や彼/彼女がどういう人なのかといったことも記されていない。そう、ここにはすなわちこういった企画にありがちな「アウトサイダーアート」の「純粋」な表現性を賛美する言説がない。そのことが私たちに、作品を「障害」というフィルター付きで見せないことに成功しているのは言うまでもないだろう。芸術における「障害」を巡る屈折を解き放つ、実践的かつ批評的な一つの達成がここにある。展覧会の視座が美術館の外へとひろがっていくことを期待したい。 |
最終更新 2015年 10月 31日 |