《Music for Plants》大友良英の場合―ピーター・コフィン《Untitled (Greenhouse)》での演奏を中心に |
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Written by Maho TANAKA |
Published: April 04 2014 |
There are no translations available. 音楽は誰のために、そして何のためにあるのだろう。当然、これは人によって様々な答えを生む問いであり、明確な意義を即答できるはずもない。音楽を「アート」に置き換えてみても、そこに別の言葉―地名、機関、施設―を当てはめたとしても、また然りである。 大友は少年期を福島で過ごした人物であり、両親は今も福島県に住んでいる。震災後の原発事故によって、この土地の多くの地域に放射性物質が拡がり人々が住む場所を奪われたことに、彼は大きな衝撃を受けた。4月11日、東京から福島に入り現地の人々と話した大友は、皆が心に大きな傷を負い、「心からだらだらと血を流しているようにすら」見えたという5。そして同じ頃、二本松市出身の遠藤から、8月15日に「原発なんてクソ喰らえ」というフリーフェスをやらないかと提案される。当初、皆が大変な状況にある中で開催する是非をためらいながらも、和合らも交えた福島の人々と話すうちに、テーマを原発だけではなく、福島の今後へと向けていったという。 更に、これらの計画を「プロジェクトFUKUSHIMA!」としたのには次のような理由があった。大友は、海外の反原発デモの映像に「NO MORE FUKUSHIMA」というプラカードを見つけた際、同じ事故を二度と起こすべきではないというメッセージには共感しつつも、自分が育った場所とアイデンティティが否定されたような感覚を覚えたという。そして、こうした不名誉でネガティヴな響きを、ポジティヴに転換していきたいという意志を込めた「プロジェクトFUKUSHIMA!」が動き出した。 この日の大友のトークの中で印象的だったのは、育った土地が酷い目に遭っているという怒りを原動力に、全身全霊を尽くし活動しながらも、福島への思いをその距離感も含め率直に語っていたことである。転校生だった小学校時代から東京の音楽に憧れた高校時代まで、地元に馴染めなかった彼は、卒業後に上京して以降、この時になるまで福島に故郷としての愛着を抱くことがなかった。2011年8月15日に福島市「四季の里」と「あづま球場」で野外フェス「フェスティバルFUKUSHIMA!」を実現した際も、ステージ上で福島出身のミュージシャンたちが「福島!!」と叫ぶ声を聞きながらも、自身は何故か声に出して言えなかったという。 筆者は、こうした出身地への真摯な思いと仲介者としての冷静な判断力を併せ持つ大友の姿勢が、福島の今後を考える中で提案した「長期的な展望」にも表れているのではないかと感じた。そこで目指されていたのは、単なる反体制的な批判や一過性の反対運動ではなく、現地の人たちの暮らしに長い目を向けた現実的方策である。当時、原発事故や反原発デモのことを報道すべきメディアが正常に機能せず、ネットからも確かな情報が得られない状況を痛感した大友らは、放射性物質に関する勉強会などの取り組みを自主的に行うことに決めたという。例えば「フェスティバルFUKUSHIMA!」を行うにあたっても、放射線衛生学の専門家・木村真三に意見を仰ぎ、会場の線量を詳しく計測した上で催行の判断をし、更にセシウムが風で舞い上がって参加者の肌に直接触れぬよう、芝生一帯に「大風呂敷」を敷いた。大風呂敷とは日本全国から募った風呂敷を地元の人々の協力で縫い合わせたもので、6000平米分もの大きさになった。また、当初会場で出さない予定だった食品についても、担当者が地元の食に思いを込め、全品目を計測することで販売できたという。各所から厳しい批判を浴びながらも、出演者約300人、観客約1万3000人、USTREAMの閲覧約25万にもなる大規模なフェスティバルは成功を収めた。 「プロジェクトFUKUSHIMA!」はこのように、専門家の助言に基づいた判断を前提とし、進行に当たって生じた迷いもプロセスとして見せようとしている。また大友は、福島の農作物の風評被害の対策として、検査を徹底することの重要性も提言している。都合の悪い部分も隠さず見せ、嘘をつかないという方針は、安全神話が崩壊しメディアへの不信が募っていた状況を踏まえた上で、重要なものだったと思われる。更にトークが行われた頃の、アートが伝統秩序に回帰するような傾向に対しては、それのみでもシニカルなカウンターカルチャーだけでもなく、新しい形が必要だと述べていた。シリアスな表現ばかりでは長続きしないとし、福島発信の表現者の存在や当事者でなければ言えないブラックユーモアの必要性にも触れている点から、大友がアートの在り方について現地の人々の心情やその将来を、つねに念頭に置いていることが感じられた。 2011年8月から数か月を経て、2012年以降に行われた対談が収められた著書においても、大友の基本的な姿勢は変わっていない7。しかし、時が過ぎていく中で新たに生まれた状況や、気づかれ始めたこともまた伝わってくる。 「長期的に」続けるという展望は翌年も敢行され、2012年8月15日から26日までの12日間に渡り、「フェスティバルFUKUSHIMA!」が再び開かれた。前回の「大風呂敷」を用いつつ、更にそこから旗が作られたが、そのパッチワーク状の生地で出来た旗には一つとして同じ柄がない。オープニングでは、福島のみならず日本全国や海外も含む100の会場で、これらバラバラの旗を一斉に立てることが目指された。そこには、「一つになろう」とすることで生まれてしまった分断に対し、敢えて「一つじゃない」というメッセージを掲げ、各自が意見を主張できるような豊かなあり方を伝えようとする思いがあったそうである。 大友は様々な分断線の存在に気づき、憂いている。原発推進か/反原発か、福島に行ったか/行っていないか、といった数多くの分断が敵味方の線のごとく機能し、「避難か除染か」という考えに代表されるような安易な二項対立が問題の解決を妨げているという 。また、福島の内側にいる人々と外側の人たちの意識のズレの大きさや、反原発運動や住民の避難に関し、たとえ善意の言動でも傷つけ合ってしまう事態がある点を問題視し 、福島に対し「ふたを閉め」、他の地域は今まで通りに過ごそうとする動きがあることにも言及している。 こうした背景を踏まえ、音楽や祭り(フェスティバル)の意義についても、改めて考えが展開されている。人々が言葉や意見の上で「一つに」なることができないのに対し、音楽の共演では、たとえ意見の異なる者同士でも自他の身体性が入り乱れ、各自ばらばらの音を出しながら全体を成す 。音楽は誰かを励ますためでも何かの役に立つものでもなく、問題に正面から向かっていくための体力、生きる力をつけるためのものだという 。大友にとって、音楽やアートは線を引くものではなく、むしろ見えない境界線を可視化し、疑問を投げかける役目を持つのである。 一方、長期的なスパンにおける音楽フェスティバルや文化の役割については、「祭り」という観点から、震災と原発事故のことを「忘却」するその仕方こそが重視されている。人が忘却する生き物だということを踏まえつつ、セシウムの半減期より早く薄れていってしまう記憶に対し、文化によって杙を打ち込むことが必要だという。それは歴史上で、災害のあった場所に教訓として石碑や物語が残されてきたことと同様である。そして、祭りを「忘却の儀式」とする大友は恐らく、忘れないためだけでなく、被害者がフラッシュバックする辛い記憶を共有し、恐怖心を発散する心のケアの機会としてもこれを捉えていると思われる 。 自身が顔の見える「メディア」になるべきという発言の通り、大友は様々な専門家との出会いやネットワークを拡げ、繋ぐ存在となってきた(例えば2012年の著書では、脚本家や経済学者、放射線衛生学者、果樹園経営者や非営利団体のメンバー、ライター、医療政策学者、社会学者からもんじゅ君に至るまで)。彼らの語りの中では、恒久除染の問題、農業における100年以上のスパンを見据えた取り組みや、スマートグリッドという新たなエネルギー供給のITシステムの提言、震災前から続いてきた中央対地方の問題(および、中央対地方という対立軸自体の問題)についてなど、様々な示唆がもたらされている。とりわけ、ここに各人によって問題に対する異なるリアクションや、関わり方の多様な姿が表れていることが印象的であった。 以上に挙げてきた大友の活動は、一つきりの結論を急がず、それぞれの立場や意見、感情を個人個人のレベルから感じ取る態度が根底にあるからこそ、出来ることなのではないだろうか。それは、普段気づかなくとも実はそこにある微細なノイズを、彼が演奏によってすくいあげ、増幅させ、響き渡らせることと似ているのかもしれない。こうした響きが私たちの間でも共振すれば、それは境界線を引きフタをしてきた現実について聞こえないふりをやめ、聴く耳を持つ力となるだろう。これまで直接被災地で支援をしたことがなく、音楽の専門家ですらない筆者にレヴューを書く資格があるのか、当初非常にためらいを感じた。しかし大友の音楽を通してその活動を知ったために、この分断線を越え、無関係ではないという意識を持つことから始めようと思えたことが、以上のレヴューを書くに至った動機である。 (初出:kalonsJournal第2号 http://www.kalons.net/oj/) [附記]本レヴューは、2013年3月に執筆したものです。 執筆にあたっては、大友良英氏より懇切なご指摘を頂戴し、プロジェクトFUKUSHIMA!事務局の富山明子様に画像提供のご協力を賜りました。末筆ながらここに記して御礼申し上げます。
脚注 1 http://www.honeyee.com/think/2011/peter_coffin/ 2 http://www.yaf.or.jp/ycc/event/2011/08/2011-3.php 3 http://www.honeyee.com/think/2011/peter_coffin/ 4 「プロジェクトFUKUSHIMA!」公式ホームページは次を参照。http://www.pj-fukushima.jp/ 5 大友良英、金子勝、児玉龍彦、坂本龍一『フクシマからはじめる日本の未来』アスペクト、2012年、pp.19-20. 6 『フクシマからはじめる日本の未来』、pp.21-22. 7 大友良英、金子勝、児玉龍彦、坂本龍一『フクシマからはじめる日本の未来』アスペクト、2012年3月発行; 大友良英『シャッター商店街と線量計―大友良英のノイズ原論』2012年12月発行。 また、「大友良英 日本語ホームページ」には、2011年4月28日東京芸術大学で行われた大友による特別講演の内容が掲載されている。 http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/fukushima.html 8 『フクシマからはじめる日本の未来』pp.31-35. 9 『フクシマからはじめる日本の未来』p p.29-30. 10 大友良英『シャッター商店街と線量計―大友良英のノイズ原論』p.31. 11 『フクシマからはじめる日本の未来』p.94. 12 『シャッター商店街と線量計―大友良英のノイズ原論』p.96, p.138. 13 『フクシマからはじめる日本の未来』pp.72-73. 14 『フクシマからはじめる日本の未来』pp.30-31. 15 『シャッター商店街と線量計―大友良英のノイズ原論』p.106, pp.275-76.
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Last Updated on October 20 2015 |