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「男子の秘密基地」  鷹取雅一:洋画アポカリプス
レビュー
執筆: 桝田 倫広   
公開日: 2009年 4月 30日

    のれんのような入口には、とろけた文字で「もぐっておすすみください」と。天井から垂れるのれんは半透明のビニール製、そこから内部の光景がうっすらと透けてみえる。しかし、全容は覚束ない。展示会場へ潜ってみると、なかなか低い。ひざまずき、四つん這いでなければ進めない空間が、膝下に広がっている。時折、その低い空間の天井に頭が当たる。とても柔らかく反発力がない。天井は大きな紙でできている。壊れやしないかとこわごわと紙の下を這いまわる。四つん這いで進むという行為は、子供の時分、低木を薙いで作った秘密基地への道のりを思い起こさせる。

   その低い紙の天井には、ところどころ天窓のような穴が開いている。そこから立ち上がり「天上」を眺望する。天井の上の世界では、紙で作られた無数の形象が垂れ下がっている。よくみれば、それらは全て女性像。ある女性は、濡れた質感の皮膚を、一方またある女性は、ボンテージのような固い質感の衣服を纏っている。どの女性も細長い縄、より鮮明に言えば触手のようなものに絡みつかれている。このような硬軟・乾湿の触覚や、男根を思い起こさせる表象、そして何より女性像そのものの、くねるような肢体は、エロティックな感覚を想起せずにはいられない。しかし、そこに作家が女性に抱く特異な性癖やフェティシズムが表出しているものとして読み込むのであれば、この作品がインスタレーションという観者を巻き込もうとする作品形態である所以を捉えられなくなってしまうだろう。

    垂れさがる無数の女性の姿に注目してみよう。描かれた女性の表情は、往々にして髪に隠れていたり、眼が黒々と塗りつぶされていたりして、とても不鮮明である。それ故に、それらはある種の人間離れした質感を持つようにみえる。先ほど取り上げた女性に絡みつく触手はなるほど、女性を思いのままに拘束する縄であり、男根の隠喩、いや、男根そのものだろう。しかし、ひとたび無数に垂れさがる女性像の影に視線を向ければ、そられはさながら薬師寺五重塔の飛天のようにみえるのだ。影の世界において触手は、彼女らを自由に羽ばたかせるための羽衣に変容している。すなわち、ここで「性」が「聖」に反転しているのではないだろうか。「異性」とは、もちろん「性」という眼差しの対象であるけれども、同時にその眼差しによってでは捉えきれない超越的な性質、つまり飛天のように自由で「聖」なる性質を持っている。だからこそ男性にとって女性は文字通り「異性」である。女性は、当然のように男性には預かり知らないことをたくさん抱えているのだ。それ故、女性を眺める男性の眼差しは、どこまでも一方通行的な眼差しである。それは、女性を自身と同一化することのできないもの、つまり女性を絶対的に異なる他者として捉え、畏怖する眼差しでもある。

    再び紙の海の下にもぐってみよう。すると、いよいよ眼前に秘密基地が現れる。それは、木材で囲われた洞窟のような小屋である。カンヴァス画が、その小屋を支える衝立のように側面に立て掛けられている。小屋の中には、チープな玩具、ドラえもんや仮面ライダーなどのおえかき帳、額に収められたドローイング、写真などが所狭しに並んでいる。紙の海が隔てる上部を意識の世界、紙の下の部分を無意識の世界という区分けで捉えてみるならば、この小屋は無意識下に集った作家の欲望の源泉とも捉えることができるかもしれない。

    とりわけ、そこに置かれていた何枚かの写真に着目してみたい。盗撮と思しき写真が数点。大人の女性の脚線をしっかりと捉えている写真が何点か。それは明らかに女性を性的に眺めている。また、女性を性的な存在として眺めることにどんなためらいもみせていない。一方でそこには、もう一枚明らかに性質の異なる写真がある。小学生と思しき女子の左半身しか写り込んでいない写真が一枚だけ、無造作に置かれている。構図は乱れ、どことなくピントもぼけている。それは、女子をカメラに収めたかったにも関わらず、カメラを向けるのさえ恥ずかしくて、ファインダーに捉え損ねたかのようなぎこちなさが読み取れる。大人の女性を捉えたものと違って、ここには被写体を捉えることに対して、何らかのためらいがある。すなわちこれらの写真の間には、明らかに対照的な性質があるのだ。女性を写した写真は、脚線に焦点が当てられており、顔はファインダーの枠に収まっていない。背景は、被写体が街角にいることが分かるが、場所を特定することはできない。一方で、小学生と思しき女子を捉えた写真には顔が写り込んでいて、匿名的ではない。背景は室内空間であって、この場所が、極めて私的な空間であることが分かる。つまり、前者が女性という存在一般に対する呵責ない性的な眼差しを向けているのに対して、後者の写真には、恐らく知人である女子を「異性」として眺めることの戸惑いが読み取れるのではないだろうか。まるでそれは、教室の片隅で、放課後友人たちと何のためらいもなくエロ本を眺める中学生が、隣席の女子とは話さえすることも憚れるように。

写真提供:児玉画廊 | © Masakazu TAKATORI

    以上のような鷹取雅一のインスタレーションに表出しているものは、男性的な性へのまなざしというよりも、まさに男子的なるものと形容することができるのではないだろうか。また、その時、先にも少し述べたが、鷹取雅一という男を、大人になっても男子的なるものを保持している希有な男性として捉えてもいいものだろうか。あるいは、それを保持していたが故に作家になれたなどと言ってしまっていいのだろうか。僕たちは往々にして、作家という存在を社会における特異な存在として扱い、讃える。一方で観者としての僕たちを、男子性を捨てネクタイを首に絞めた立派な紳士、男性と規定し、作家と僕たちが違う生を生きていると捉えてしまう。しかし、鷹取はインスタレーションによって彼が抱える男子的なるものを観者に追体験させる。また、各個人の古い記憶を、低い紙でできた地下道をたどって、呼び起こそうと画策している。

    奇しくもこのインスタレーションの出口には、中学生の集合写真がぶら下がっている。作家は、ここで男子的なるものが大人になったつもりの僕たちの心にも残存しているという事実を突き付けてくる。そう、僕たちは確かにそこにいた。それが性衝動なのか恋心なのかはたまた、嫌悪感なのかよく分からない奇妙な感慨を抱きながら、胸の膨らみ始めた女子の隣に立っていた。それは、思春期の過程で誰しもが不可避的に経験してきたはずのものだ。つまり男子的なるものは、記憶や経験といった形で僕たちの内部にも残存している。

   確かに僕たちは大人になった。しかし、交わった地平にいる大人の僕たちでさえ、結局、根源的な意味で女性と交わったことはない。女子とは男子にとって他者であり続ける。でも悲観することはない。究極的に分かり合えないからこそ、男子は女子にやさしくなれる可能性を持つのだから。

「女の子はわがままだ。よく分からない生きものだ。
でもやさしくしてしまう。何もかえってこないのに」 ※1

    男子の眼差しが、女子を性の対象として征服することはできない。その眼差しから「異性」である女子はするりと零れ落ちてしまう。故に女子とは、「性」の対象であり、同時に「聖」の対象である。そしてまさにそのことによって、僕たちはやさしくなれる可能性がある。ここまでくれば、このインスタレーションを単なる青い性衝動の賜物として捉えることはどうやってもできない。情けない僕たちの唯一の心の拠り所、男子の秘密基地(アジール)として捉えることができるだろう。彼はそれを作品として見せてくれたけれど、それはきっと、今ではすっかり紳士ぶるどんな男性の心にもあるはずだ。

    では、最後に問題。一体、女子はどのようにこの作品を見たらいいのか。僕は男子的なる書き手なので女子のきもちはわからない。多分、きっと「全く男子は、ばかなんだから」と笑ってくれればいい。でも、それは、男子のわがままなのかもしれない。

脚注
※1
岸田繁(くるり)「男の子と女の子」歌詞

参照展覧会

展覧会名: 鷹取雅一:洋画アポカリプス
会期: 2009年1月24日~2009年2月28日
会場: 児玉画廊 | 京都

最終更新 2010年 9月 16日
 

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