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MIWA:Many Words
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 7月 21日

画像提供:gallery neutron | copy right(c) MIWA

誤解や偏見を恐れずに書くとすれば、「MIWA」の描く絵画に現れる問題意識は、日本の国内に留まって平和を謳歌している私達多くの日本人には、ピンと来ないという向きも少なくはない。では生粋の日本女性である彼女がなぜ、このような無国籍なジプシーの様な人物描写をするかと言えば、その答えとして「夫がイスラエル人であるから」という一つの結論を持たずにはいられない。本来なら作家については作品からこそ語られるべきであり、作家自身のアイデンティティーやプライバシーから論じるのはいささか躊躇するのだが、さりとて本質的にMIWA の作品を知ろうとする時、少なくとも上記の事実一つだけ知っておくだけでも理解のされ方、作品の見方は大きく変わる。それはもちろん、正しい方向に導かれるという意味ではあるのだが、そこでもし冒頭に述べた様に「誤解や偏見」を持たれてしまっては、元も子もない。だが、MIWA が絵を通じて訴えかけたいことの主軸には現代社会、現実世界における「マイノリティー(少数派)」の存在の主張があることを考えれば、ある意味では自身の身の回りに生じる事柄にも彼女は同様に接していると思われ、だとすれば私がここで意を決してイスラエル人の夫の話をすることも、彼女が今までに経験してきた多くの出来事の一つでしか無いのかも知れない。 イスラエルとパレスチナに限らず、今この瞬間にも、世界では多くの紛争や戦争が継続的に起こっている。最近では中国内における少数民族への過剰な制圧が問題とされ、米国によるアフガンの後処理も未だ半ばとしか言えない。宗教、思想、人種の別はおそらく人間が人間であるかぎり絶対に無くならない差異であり壁であり、アイデンティティーというものの根幹を成すものである。だからこそ民族間の対立は歴史を跨いで引き継がれ、インターネットの時代には新たな無差別攻撃や世界同時進行の恐慌といったグローバリズムの忌まわしき側面が浮き彫りとなっている。確かに世界は縮まった。が、根本的に民族、歴史、文化の違いを深く理解した上での相互理解など進んではいない。むしろ、世界中の都市の表面はマクドナルドとスターバックスとブランドファッション店によって似通ったものになる一方、その土地の本質はマンホールに蓋をするかのように覆い隠されているとも言えよう。 MIWA にとって日常的に・痛切に感じるリアリティーこそが創作の原点であり、それはおそらく彼女の生きている限りは無くなる事はないであろう。残念ながら人間の思考も行動も、どんなに歴史を繰り返しても発展しているとは言い難い。発展しているのはテクノロジーと学問と文化(であると思いたい)くらいなものであろう。それは人間の存在価値であるかのごとく後世へ引き継がれ大事にされるが、暗黒の時代においてはそれすらもイデオロギーの違いによって抹殺され、歴史から葬られる。ヒトラーの時代に生きた或るユダヤ系のピアニストの半生を描いた映画「戦場のピアニスト」は私の見た中でも特に秀逸な戦争映画であり人間ドラマであるのだが、ワルシャワの街がナチスによって全て焼き尽くされ、その荒涼とした広がりを前に立ちすくむことしか出来ない主人公の姿は、激動の時代において取り残されたとしか言いようのないマイノリティーの姿であり、それは過去においても未来においても、私達自身ではないと言い切る事は、はたして出来るだろうか? MIWAの絵には一見して悲惨さや哀切さは見当たらない。人物達はどこか無国籍な表情で、ゲイを暗喩するようなヒゲを生やしたりヒッピーのような長髪だったり、男性の戦士はなぜか下半身がブリーフ一枚だったりするので、シリアスな側面とユーモラスな面が同居する。髪の毛にあたる部分には花柄のパターンが描かれ、どうにも緊張感が漲っているとは言えない。彼らはどこの国の人で、何を目的として、誰と戦おうとするのか。あるいは何を守ろうとするのか。画面において粒状に描かれる広がりは群集を意味しており、その圧倒的な背景と目の前に現れる一個人は永遠の相対性を持ち、彼もしくは彼女が後ろの群集の中に消えた時、私達はもはや判別できないと言う事を暗示している。人種、性差、宗教や文化の別を超えて目の前にたまたま現れたその人物は、彼らにとっての私達自身でもある。ただし彼らの深い眼差しは、私達が知らない何かを訴えかけているのであるが。(gallery neutron 代表 石橋圭吾)

※全文提供: gallery neutron

最終更新 2009年 9月 01日
 

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