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非実在のフォト(光)・グラフ(描):新正卓・古家万・山口理一・吉田茂規・Koh Myung Keun・Song Dong
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 7月 12日

❶ARAMASA Taku, blessing in forest 002, 2007 ❷Shigeki Yoshida, 41st & Park Ave, 2003-2008 ❸Man Furuya, No.032208 Seascape and The Moon, 2008 ❹Koh Myung Keun, Buildng 9, 2004 ❺Riichi Yamaguchi, 090112, 2001 ❻Song Dong, Waste Not, 2006 画像提供:東京画廊+BTAP

カメラは玩具(おもちゃ)でしょうか。携帯電話のボタンをちょっと押してみて、凡庸な現実の一瞬をとらえる、そんな瑣末な行為が写真(フォトグラフ)なのでしょうか。今日、写真撮影は浅薄で短絡的な表現へと傾き、単なるスナップ写真の撮影と同化しようとしています。やがて、写真画像の認識自体も即席の知覚(スナップ・パーセプション)、つまり画像のうちに「現実の」対象を知覚するだけの、一瞬の視線となってしまうのでしょう。写真とは本来、「Photo光-graphy描」つまり光による描画とされていたはずです。しかし、カメラが日用品となりゆく現在、同時に、写真に備わっていた神秘は、日常の娯楽になり果てるその瀬戸際にあります。そして、写真画像もまた、現実の物体(モノ)の残像になってしまう。日常が吐き出す廃物(ゴミ)になろうとしているのです。 東京画廊+BTAPはこの度、「非実在のフォト(光)・グラフ(描)」展を開催いたします。本展に出展される日本・中国・韓国の6名の作家は、写真のもつ想像力に注意を促し、単に現実世界のコピーを生み出すものとして理解されているこのメディアの、バーチャルな性質を明らかにしてくれます。

本展覧会の批評的趣旨は、第一に、知的かつ感情的に練り上げられてゆく創造行為として写真を提示することです。カメラのボタンを押すことを背後で支えているのは、達観した姿勢です。本展で紹介するのは、写真固有の想像世界を「作り上げる」作家であり、特殊な瞬間や奇妙な物体を「捕まえて」来ようとする作家ではありません。

第二に、本展では、写真のもつ絵画性を強調するだけではなく、それを極限まで押し進めるものです。写真は、日常の現実に存在しない、さらには生身の人間の想像力さえ及ばないものまでも描こうとします。いうなれば、本展は「想像し得ないもの」の写真を提示しようという試みなのです。

第三に、物体の単純な複製という観念に抵抗しうる作品を展示することによって、本展は、メディアとしての写真それ自体に注意を促し、それを歴史的、人類学的諸相においてとらえることを目的とします。 「非実在のフォト・グラフ」展は、日常生活あるいはその廃物(ごみ)としての写真に抵抗する試みです。しかしその一方で、本展が展示する作品では、日常と廃物そのもののうちにこそ、写真固有の想像力が求められています。非現実を探し出すと言っても、教会やUFO発見の場所へは向かわない。そうではなく、極めて現実的であり、凡庸とさえ見える、そうとしか見えないようなものへと入り込み、探索を進めることで、非実在の写真が現れるのです。こうして、森にカメラを持ち込み(新正卓)、なじみのある風景を読み取り(古家万)、身体に密着し(山口理一)、街の壁を観察し(吉田茂規)、 古いビルを精査し(Koh Myung Keun)、古物を積み上げ、廃物(ごみ)そのものを撮影する(宋冬)。「非実在のフォト・グラフ」は、「日常と廃物を撮った写真」を使って「日常と廃物となった写真」を乗り越えるのです。

※全文提供: 東京画廊+BTAP

最終更新 2009年 7月 08日
 

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