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「楽園創造(パラダイス)-芸術と日常の新地平-」Vol.1 平川ヒロ
展覧会
執筆: カロンズネット編集3   
公開日: 2013年 3月 18日

平川ヒロ 「机上に開いて読んでいる事(部分)」 2013

●踏み越えられた中からパラダイスを求めて 平川ヒロの表現
中井康之

楽園創造(パラダイス)というタイトルによってはじまる今回のαMプロジェクトに最初に登場するのは平川ヒロ、未だ活動間もない作家である。 愛知県立芸術大学絵画科を卒業し、当初は、フランス20世紀初頭の遅れてきた印象派とも異名をとる画家ピエール・ボナールを思い起こさせるような暖色系の色彩を中心にした緩やかな絵画を描いていた。 同作品がコンペティションで受賞したことにより、発表の場が与えられて開催した個展「となりの部屋のうそつき」が、平川の実質的なデビューとなるだろう。

同展は、大小2つの展示室によって構成されていた。 大きな部屋には上述したようなナビ派風の窓景画(但しそれらは同様の図像が描かれた色彩の変化した連作のようになっていた)が9点展示され、小さな部屋には紐や布、裸電球等の日用品によるインスタレーションが施さていた。 その小さな部屋の奥に掛けられていた白い布の集合体が作り出す模様が、 風景画と同様の構図を反復することによって、小さな部屋の事物たちも風景画の構造を取っている事に気づく、というような仕掛けが施されていた。平川は、その展示によって絵画を構成する要素を、絵の具のような媒体とカンバスのような支持体のみでなく、その絵画を展示する展示空間や建築物にまで敷衍し、モダニズムの洗礼を受けて捨象されてしまった要素を復活することを考えていた、のであろう。

ただし、気をつけなければならないのは、絵画をそのようなシステムとして解釈することばかりではなく、解釈したシステムを介することによって新しい表現を獲得するかのような錯覚を起こすことであることは論を俟たないであろう。 換言しよう。絵画の構造を捉えなおすことは、制作する立場からも常に問い直される必要がある。 そうでなければそのシステムが精度を保つことは無いだろう。 しかしながら、そのような鋭意努力によって精度が上がったとしても、その結果としての作品の質を証明することには全くならないこともまた、 理の当然なのである。

少し抽象化したが、平川氏に参加してもらうにあたって生じた様々な経緯も含めての紹介文としてここまで述べてきた。 平川が描いていた作品が、ボナールを思い起こさせることは冒頭に述べた。 そのボナールという作家は、20世紀初頭、既に時代の趨勢としてはフォーヴィスムやキュビスムの時代となり抽象絵画も生まれていたが、その作家は印象派がやり尽くしてはいなかった「自然主義的な色の受け取り方の克服」という観点からの再解釈を試み、結果的には印象主義を強化するかのような立ち位置によって、独自な境地を獲得したことで知られている。 おそらく、平川にとっても新しい何かではなく、踏み越えられ凌駕したと等閑視する世界に、パラダイスを見つけ出す可能性が残されていると思われるのである。 平川が、そのような新たな境地を、この展示空間に見出しかつ顕現することを、私は待望するのである。

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●楽園創造(パラダイス)-芸術と日常の新地平-  中井康之

「芸術」を「日常」から乖離させたのはロマン主義だった。 近代以降の芸術思想はその流れを汲むものであったろう。 20世紀における芸術の革命の旗手、シュプレマティスム運動は、政治という「日常」が「芸術」との束の間の蜜月を生み出すのだが、革命政府は内容や主題を革命に沿わせる方向に転換し、芸術様式の革命にはそっぽを向いた。 革新的な様式の精神が生き存えたのは、非革命的な政治世界、資本主義体制に於いてであった。

「芸術」と「日常」は再び乖離した。そのような歪んだ関係に対して、戦争という圧倒的な「日常」に対峙しうる絶対的な「芸術」が求められた過程を、ダダイスムという反芸術運動に見る事ができるだろう。 さらには、彼らの作品に用いられたオブジェやコラージュといった技法は、伝統的な習練の積み重ねを必要とせず、「芸術」を技術から解放した。 欧米で誕生したそのような反芸術的世界は、時を経て肥大化し、近代以降の美術の理想的な姿として強化されていった。 そのような大局的な動向に対して、日本の1950年代〜60年代の反芸術的作品は、様式として一般化したというより、個人の情念的とも言える世界が噴出したような側面を持った。 皮肉にも、そこにダダの精神が生き存えられたのである。

以上のような20世紀美術のある一面を辿ったときに、「芸術」は「日常」と乖離していなければならないという教条主義的な姿勢が見え隠れする。 それは「日常」というものが封建的な制度の元に醸成されたという暗黙の了解の元、その網の目から脱するために各個の自立が絶対的な必要条件とされたという図式である。 もちろん、このような解釈を敷衍するならば、ダダイスムのような革命的芸術運動は、「大きな物語」化すると同時にその役割が終焉する筈であり、「小さな物語」としての20世紀中頃の日本の反芸術的作品にこそ、その精神が活きているという筋書きをそこに見ることができる。 しかしながら、20世紀末に社会主義体制が崩れると同時に「ポストモダン」の物語も崩壊し、「小さな物語」は<マイクロ・ポップ>と称されるような奇貨として我々の目の前に現れることになる。 それは「日常」に融解した芸術であろう。

今回のαMプロジェクトでは、多様な階層の価値観や思想といった形而上的なレベルから、人々が生きていく中で生み出されてきたあらゆるものまで、等しく相対的に捉え得るような世界である今日の我々の「日常」を、「芸術」という、かつて歴史的に存在していた世界観を通じて鮮やかに映しだしてくれる作家たちを集め、「楽園創造(パラダイス) −−芸術と日常の新地平−−」というタイトルで1年間のプロジェクトとして始動する。 ここに集う作家たちのさまざまな表現を介しながら、我々がこれまで見ることの無かった「日常」というパラダイスと出会えることをここに約束しよう。

[作家コメント]
私は混沌とした心境の時に、自分がハッピーエンドとみなした小説を読むことがあります。
そして、文中の気になる言葉が記されたページにポストイットで印をつけ、
自分自身の記憶や境遇と照らし合わせます。
私が日常で遭遇する対象を読み解く際に、おそらく参考になるはずですし、何より、幸せな結末を見出す可能性を示してくれていると思えるからです。

この種の小説の中で、太宰治の書いた「ろまん燈籠」があります。
私はこれを、その内容の全てを計り知ることができないながらに、太宰の対象への感情を分節し、幸福な結末として繫ぎ合わされていることが明快な作品だと思っています。
手短に内容を説明すると、入江家の一風変わった様子が題材となっており、
その家族の五人兄妹による物語の連作が出来上がるまでを、家族一同があたたかく見守るという話になっています。兄妹のつくった物語は、森の中で魔女に育てられた活発で容姿の美しいラプンツェルと、その森へ誤って迷い込んだ王子を主人公とした、ありふれたようでもあるロマンチックな内容です。

このような、自分にとって明快で幸せな予定調和であると思われる文中に、目印となるポストイットを貼り、自分自身の記憶や境遇を照らし合わせ読み進めてゆくことで、私が日常で遭遇する対象を新たな切り口で読み解く手掛かりになるのではと思うのです。

私は白く美しいものに目を奪われることが多々あります。
αMの展示空間にある白い壁もその中の一つです。
その壁の裏側や周囲にはもちろん何かが存在していますが、表層に気を取られるあまり辺りの状況が分からなくなってしまい、まるで意識を覆い隠されている状態だといえます。
今回の展示では、αMの壁と私が日常で遭遇する見えにくい対象とを、意識を覆い隠すものとして関連させて、αMの壁に惑わされることによって対象が見えにくくなってしまう状態を大きな枠組みとしています。
この見えにくい対象を、幸せな予定調和の中の気になる単語を参考に、自分自身の記憶によって手探りで取り出し、それを造形物として落とし込んだ上で展示空間全体に展開することで、対象に対する意識自体について考察するものです。

平川ヒロ

[作家プロフィール]
●平川ヒロ ひらかわひろ
主な個展に2012年「かくぎょうとびしょっぷ」(JIKKA、東京)、2011年「よじのぼったネズミと、くぐりぬけようとするネコ」(TakaIshii Gallery Kyoto、京都)、2010年「となりの部屋のうそつき」(Tokyo wonder site Hongo、東京)など。主なグループ展に2012年「Hong Kong & Japancrossing partnership in creativity」(丸ノ内ビル 1F、東京)、2009年「MONTBLANC youngartist patronage in Japan」(MONTBLANC 銀座本店、東京)など。

●アーティストトーク 4月6日(土)17時~18時 平川ヒロx中井康之
●オープニングパーティー 4月6日(土)18時~


全文提供:gallery αM
会期:2013年4月6日(土)~2013年5月11日(土)
時間:11:00~19:00
休日:日・月・祝
会場:gallery αM
最終更新 2013年 4月 06日
 

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