| EN |

郷土作家展 吉本直子・久保健史・浅田暢夫 : 内包の布 空間の石 存在の写真
レビュー
執筆: 黒木 杏紀   
公開日: 2012年 11月 24日

展覧会イメージ画像

吉本直子《鼓動の庭》2012

吉本直子《白の棺》2006

久保健史《ものもの。》1997-2012

久保健史《空気の中》2012

浅田暢夫《海のある場所》1997-2012

浅田暢夫《杜(もり)》2011-2012

画像提供:姫路市立美術館

世界遺産である姫路城に隣接する姫路市立美術館で開催された郷土作家展は、播磨ゆかりの3人の作家吉本直子、久保健史、浅田暢夫と美術館が相互協力する中で実現された。本展パンフレットによると3人の作家は、「かつて人が纏ったシャツのシミに命の痕跡を見出す吉本、大理石の造形により、サイトペシフィックな(特定の場所に帰属する)空間をつくり出す久保、写真を撮影することで自然と場所について考える浅田」※1と紹介されている。布・石・写真と全く異なる表現媒体を用いる3人の作家を通して見えてきた「境界線」をキーワードに、本展を見ていきたい。

ここでいう境界線とは、作品を通してその先に見えてくるものと定義した。例えば造形作家の吉本直子による『内包の布』は、古着のシャツに人の生きた証を見出し、死を彷彿とさせると同時に、そこには生と死の境界線がしかれ、人が生きることの意味を鑑賞者に喚起させる。石の彫刻家久保健史の『空間の石』は、展示エリアの中に足を踏み入れるか入れないか、そこには鑑賞者の心理的な境界線が存在し、作品の見え方が違ってくる。写真家浅田暢夫の『存在の写真』は、人間の日常生活圏という境界線を越えて被写体を捉え、場所を通して人が人であることを問う。以下、3人の作家の作品について具体的に述べていきたい。




吉本直子 内包の布

天井から床までの壁一面を、おびただしい数の白いブロックが覆い尽くす。表面に浮き上がるレリーフ模様は、よく見ると袖口や襟、胸元のボタン、布のシワや折り目であり、ブロック一つ一つが白いシャツであることが見てとれ、ところどころの黄ばみやシミは、かつて誰かが袖を通していたものであることを物語る。白いブロックには、身に纏っていた人の生きた時間、人生が包み込まれているのだ。作家の吉本直子は、古着の白いシャツを一枚一枚糊で固め、圧縮してブロック状に型どったパーツを組み合わせる手法で作品を制作していく。

今回の展示室全体を使ったインスタレーション『鼓動の庭』(2012)は、一種厳かな神聖さに支配され、壁を前にして漂うその静けさは、カタコンベを前にした時のそれと類似する。古着のシャツはそれを纏っていた人の生きた証なのだから、カタコンベになぞらえるのも、そう的外れでもないはずだ。展示室の中央にポツンと置かれた一脚の白い椅子は、その壁に対峙するよう誘う。何百何千もの人生の痕跡と向き合うことは、つまり自分自身と対峙することにも通じる。幾千幾万もの経験が刻み込まれる壁の前で、抱える悩みすら、古今東西この世に生を受けた人々が皆通ってきた道筋なのだと、安堵とともに柔らかく優しい気持ちになっていく。

一方、別の展示室には4点の作品があり、そのうちの一つ『白い柩』(2006)は、一辺が2m近くありそうな立方体だが、向き合う2つの面に積み上げられたシャツのブロックから、内部に向かっていくつものシャツの袖が水平にのびているその様は、お互いが相手の存在を求め合いせつなくのばされた腕に見える。糊で固められ硬直した袖からは、魂の叫びが聞こえてくるようだ。一人で生まれ一人で死にゆく運命を背負いながらも、なお人は誰かの存在を求めてやまない。幸か不幸か出会いと別れの連鎖によって、人生は紡がれていく。人によって傷つけられもするが、癒すのもまた人なのだ。本当の自分の居場所とは誰かの腕の中にほかならない。母の腕に抱かれたその体は、いつの日か誰かを優しく包む腕になる。

白に包まれ人の生きた時間は優しくなる。怒りや憎しみ、悲しみ、憤り、絶望は全て昇華され、喜びや笑い愛し愛された記憶だけが残る。白いシャツのブロックの積み重なりは、人の生きた儚い時間、人生のひとコマの積み重ね。人間の生きた時間の本質は、誰かを愛し誰かに愛された記憶、愛し愛されることを求めた時間ではないだろうか。それゆえに傷つき悲しみ苦しみ憤り、それゆえに喜び満たされ希望を持つ。肉体が滅び白い灰になったあと残されるものは愛した記憶、愛された記憶、愛されなかった記憶、愛ゆえの記憶。誰かと共に生き、共に過ごし、確かに繋がった感覚だけが白く灰になって残されるように思う。

かつて誰かがその身に纏った古着の白いシャツには人の生きた痕跡が見出され、そこには生と死の境界線が垣間見られる。人は死を意識したとき、人生の中で本当に大切なものが見えてくるのではないか。




久保健史 空間の石


「カタチの中に見るお気に入りの部分
その部分は全体を支配しているようにおもえた
ボクの彫刻は一つの部分に支配されながらカタチになる」※2

摩訶不思議なカタチの大理石の彫刻作品をどう見ていいかわからない。美術館の庭で、全身粉だらけになり、作品『神様のすきまと罠』(2012)を公開製作中の久保健史。何を作っているのかと声をかけた。野暮な質問にちょっと困った顔をしながら、「何かを作っているわけではない。」という作家の返事にますます困惑した。

久保健史の作品を見るのには、ちょっとしたコツがいる。通路に沿って作品を遠目に眺めているだけではその面白さがわかりにくい。その証拠に、通路の柵に沿って作家自身の靴がいくつも揃えて並べられ、靴を脱いで展示エリアの中へ入ってくるよう誘う。美術館の中で靴を脱いで作品を観るというのも、通常ではまずない話だろう。

展示エリアに置いてある作家手書きの案内図には、見取り図とともに、『四角い魔法の森と神様のルージュ』(2012)、『山(雲の砦)と道』(2012)、『雲POD』(2012)、『四角い魔法陣』(2012)、『死を忘れない湖、と森』(2012)など、ファンタジックなタイトルが連なる。石のカタチとタイトル、細部を眺めていくうちに、大理石を削って作品を作ったというよりは、大理石をもとに空間を創造したのだと気づいた。冒頭の「何かを作っているわけではない」という作家の言葉は、真実を語っていたわけだ。

作品の一つ『空気の中』(2012)は、立方体の石の側面をくり抜き、横からのぞくと向こう側の景色が見えるような筒型の四角形の中に、逆円錐形のオブジェがすっぽりと入り込んだような形状だ。空洞内部の上面から底面に向けてすぼまっていく逆円錐形のオブジェは底面の中心に点で着地し、絶妙なバランスをとる。重さ数トンの大理石の中の小さな空間は無限の広がりを見せ、作品は空間の一部となるとともにその空間をカタチづくる。数々の作品は猫が居心地の良い場所を見つけてうずくまるように、そのカタチが欲する場所に置かれているのだ。作品の合間に点在するヴィンテージものの椅子※3に座ってみるとそのことがよく分かる。以前からそこに置かれてあったかのように、大理石の彫刻が空間に馴染み、実に居心地が良い。柵を越え、靴を脱ぎ、裸足で入り込んだ展示エリア、そこは石の彫刻家久保健史が作り出したワンダーランドであり、作家の部屋に招待された気分になるくつろぎの場だった。

カタチに対するこだわりは、壁一面の巨大な陳列ケースを使ったインスタレーション『ものもの。』(1997-2012)にも現れる。それは久保自身のコレクションであるが、ずらりと並んだ陶器やオブジェ、ポップな小物類は、アンティークから同世代の作家のものにまでおよび、美的センスと趣味の幅広さが見て取れる。重厚な大理石の彫刻作品と片手にすっぽり収まるサイズの『ものもの。』の、一見アンバランスなコラボレーションの世界はやはりワンダーランドだ。

個々の彫刻作品によってカタチづくられた空間の広がりを、鑑賞者は展示エリアに足を踏み入れることで発見するが、そこには多少なりとも心理的な葛藤(境界線)が存在する。もしその一歩を踏み出さず、作品を遠巻きに眺めるだけでは、久保が本当に何を作り出したのかを知ることは出来なかっただろう。




浅田暢夫 存在の写真

海辺で暮らし、春夏秋冬めぐる季節を通して海を眺めてきたものしか知らない海の表情がある。晴れた日、曇りの日、雨の日、台風の日、季節や空に呼応して海は目まぐるしく表情を変えていく。一日として同じ日はない。写真家浅田の実家近く、福井県高浜町にある浜辺から撮影したのが、『海のある場所』(1997-2012)シリーズである。

海の中に入り、潮の香り、波の動き、海水温、波しぶきを全身で受け止め、海に抱かれながら捉えた一瞬は実に多彩だ。月明かりに照らされ銀色に輝く波間の泡、穏やかな夕陽に染まる浜辺に崩れ落ちる波、七色の虹を遠く背に抱える暗い海と鮮やかな空のコントラスト。鑑賞者はどんどん海の世界に入り込んでいく。そして時に、海の荒々しい表情を見せつけられる。光をすべて取り込んでしまうような深く濃い暗黒色をしたせりあがる海面、水平線は明らかに目線の上であり、海の底知れなさに圧倒される。写真を前にして周囲360度を海に囲まれたような感覚に陥入り、一瞬恐れにも似た感覚を味わう。そして鑑賞者は自分が陸に住む人間であることを、改めて認識するのだ。

もう一つのシリーズ作品『杜(もり)』(2011-2012)は、山に生きる動物を中央に捉えたものだが、単なる動物写真とは異なる。木立に見え隠れする動物の姿は動きを止め、撮影者を、そして鑑賞者をも見据えている。その杜(もり)は動物たちの生きる場所であり、彼らにとって人間は部外者なのだ。こちらに視線を向ける動物の瞳の奥には、人間に媚びることのない命の輝きが宿り、私たちの生活とは別の世界があることを知らしめる。そこでも命の誕生があり、育まれ、生き抜くための営みが存在する。私はその写真の前で、心の奥底の純粋で柔らかな部分がかすかに震えるのを感じ、ただ生きる、ひたすらに生きる、その尊さを知った。

浅田は人間の生活圏(境界線)を越えて被写体を捉えるが、その作品を通して鑑賞者もまた越境するのだ。海にしろ、山にしろ、私たち人間が暮らす生活圏を越えた先に視線を向けることは、単なる感動に留まらず、人間として生きていくことの意味を考えること、そして知ることにつながるのではないだろうか。

 


脚註
※1 本展案内パンフレット裏面 展覧会紹介文より抜粋
※2 本展覧会図録 20頁 作家(久保健史)による言葉を引用
※3 作家(久保健史)の私物


参照展覧会
郷土作家展 吉本直子・久保健史・浅田暢夫:内包の布 空間の石 存在の写真
会期:2012年9月13日(木)~10月21日(日)
会場:姫路市立美術館 http://www.city.himeji.lg.jp/art/
最終更新 2015年 10月 20日
 

| EN |