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メグロアドレス−都会に生きる作家展
Reviews
Written by Haruka TOMITA   
Published: July 02 2012
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保井智貴《calm》漆、麻布、螺鈿、岩絵具、膠、黒曜石、琥珀、大理石、etc. 161.0×58.0×31.0cm 2009
画像提供:目黒区美術館

今井智己《memtal map studies》発色現像方式印画 2010-11
画像提供:目黒区美術館

南川史門(展示風景)
《東京の印象(イエロー、パープル、グレー、ピンク、パール)》アクリル、カンヴァス各130.0×162.5cm(5点組)2012 
《金、銀、ピンクのストライプ》アクリル、カンヴァス 130.0×231.0cm 2011
《ミラー》アクリル、カンヴァス 130.0×130.0cm 2011
《金、黒、緑ストライプ》アクリル、カンヴァス 162.5×130.0cm 2011
Courtesy of the artist and MISAKO & ROSEN
画像提供:目黒区美術館

青山悟+平石博一 《Death Song》 ミクストメディア 2012
画像提供:目黒区美術館

須藤由希子《W邸-冬の庭》鉛筆、油彩、カンヴァス、石膏ジェッソ下地 60.0×140.0cm 2010
画像提供:目黒区美術館

長坂常《関係しない関係》ミクストメディア 2012
画像提供:目黒区美術館

   現代において、人、物、音、建物などあらゆる情報に囲まれている都会での生活。たくさんの物が溢れるこの都会で、私たちが日頃見ているものは一体何か。どれだけの物と関わり、考え生きているのか。
   目黒区美術館で開催された本展覧会は、東京都目黒区に住んでいる(もしくは住んでいた)、現在活躍中の1組と5人の作家、青山悟と平石博一、今井智己、須藤由希子、長坂常、南川史門、保井智貴によるグループ展だ。写真や、絵画、彫刻、インスタレーションなど、表現方法は皆異なり、一見するとそれぞれの作家が造り出した作品に共通点は無いようである。しかし、ここに並ぶ作品の作り手が「都会に生きる作家」たちであることで、鑑賞者は、「都会」という概念を頭の片隅に置きながら作品を見ることになる。そもそも「都会」とは、どのような場所なのか。広辞苑を引いてみると「人口が密集し、商工業が発達して多くの文化設備がある繁華な土地」とある。目黒区もまさにこの都会の一部だ。このような場所で生活を送る人々は日々何を思って生きているのだろうか。それを考えるきっかけになるのが今回の展示であった。
   展示室には特に順路などは設けられていない。鑑賞者は思い思いに作品を観て行くことになる。各々の作品が展示室にバランス良く配置され、物が寄せ集まった窮屈な街中とは違い、作品の間に程よく空間が設けられ、作品の一つ一つにじっくり向き合って観て行く事ができた。本レビューでは、今回の展覧会に参加した作家全員について書いていく。

保井智貴(彫刻)
まず私が目にした作品は、保井智貴(1974−)の彫刻、《calm》 ※1というワンピースを着た女性像だ。等身大の直立不動の姿が存在感を示していた。この彫刻は、乾漆という日本古来の仏像などに用いられた伝統的な技法で製作されている。また、ワンピースに螺鈿で施された植物のモチーフは、過去から多くの作家によって継承され続けてきた琳派のそれを想起させる。2012年に製作された新作《繰り返して春》は、この《calm》が起因となった作品だ。さらに、美術館の階段を昇ってすぐの所に居た二匹の犬の彫像《untitled》は、愛らしくもあるが、尻尾を垂らし、どこか悲しげな表情でじっと佇む姿が例えば人間社会に対する不安のようなものを予感させる。どちらの作品も《calm》同様、漆が使用され、岩絵の具で色づけされている。
   今、目の前にある物を見る私たちは、対象物の現状を見ているわけであり、その物が100年、200年、いや、もっと先どうなるかなど直感的に考えはしないだろう。物が多すぎるから、いちいちそのような事は考えてはいられない。だが、保井が創造した女性像などを観ると、あぁ、この娘たちは、やがてはどのように変化し、またどのような世界を見て行くことになるのだろうか、と思わずにはいられない。彼女たちが前を見据え、何かを諭しているような眼差しをしているからだろうか。また、過去から現代の作家に受け継がれた伝統的な素材が使用されていることで、今後も作品そのものが形を変えて未来に残っていくであろうことを暗示しているようでならない。作家自身、漆を使用することで、時間の流れと共に、その状態が少しずつ変化して行く様を期待している。実に多くの物が溢れるこの場所で、時が経っても後の世に残していきたいものは何であろうか、と思考を巡らせたくなる作品だ。


今井智己(写真)
   今井智己(1974−)は、盲目の人々が外出する際、彼らに周囲の景色の説明を行う視覚障害者ガイドヘルパーとして活動した経験から、「写真をみるということ」とは何かを問うた作品群《mental map studies》を展示した。メンタルマップとは、本展においては視覚障害者がまだ見えていた頃の視覚的な記憶を指す※2。ガイドヘルパーによって説明された周囲の状況から、視覚障害者はかつての記憶を思い起こすらしい。ならば、写真も同じではないかと、彼の作品を前にして思った。おそらく誰もが写真を見ることで、その写真が撮られた当時の記憶をより鮮明に思い起こすという経験をしたことがあるだろう。ガイドヘルパーの言葉や、写真というものは記憶を補うものとして同等の役割を果たしているのかもしれない。
   気にも止めない風景がやがて、記憶から消えてしまう。そして新たな情報がインプットされていく。変化に富む現代、さらには都会において、その動きが実に早くめまぐるしい。「見ること」は記憶の蓄積とも考えることが出来るのではないだろうか。例え盲目ではなくても、過去の思い出は、記憶の重なりの中に埋もれてしまう。ガイドヘルパーは見えないことを補い、さらには記憶を補っていくが、写真もまた然りなのだろう。
   今井が写したのは、ありふれた景色、そして普段見過ごしがちな景色だ。何を言葉にして伝えるのか、何を撮るのか、何を見るのか、それは個々人の判断に委ねられるものだ。展示された写真を見て行くと、今井が歩きながらガイドしていった軌跡、あるいは撮影の軌跡を追っているような感覚にもなるが、同時に、普段目にくれないものを見つめなおすことで、それらが何やら特別なものに見えてくる。それもまた、自分の記憶の一部に成りうるからかもしれないからだ。

南川史門(絵画)
   さらっとクールで、他人に対してさほど干渉しない。実に都会的なシンプルな一面がみられるのが南川史門(1972−)の油彩画作品だ。ストライプ、無機質な色のコンポジション、人物。街中のどこにでもあるような物をスナップショットのように切り出し、製作に移行するという南川の作品からは、感情こそ見えてこないが、物に対する冷静な眼差しを感じることができる。
  《東京の印象(イエロー、パープル、グレー、ピンク、パール)》と題された作品など、人工的な色合いが、街中の建物のコンクリートや、広告のポップの色、流行のシャーベットカラーで着飾った女の子たちなどを連想させる。個々の作品をひとつずつ鑑賞するのはもちろんではあるが、展示されている作品をまとめて見ていると、都会のある一帯を見渡しているような感覚にもなる。南川は、展示に際して「見終わったあとにみなさんが日常生活の中で僕が選んでいるモチーフを発見したり、僕の絵画を思い出すことがあればとても嬉しいです」※3という言葉を残しているが、まさに私たちは彼の絵に表されたモチーフに似たものを街中で目にすることになるのだ。
   また、《金、銀、ピンクのストライプ》《金、黒、緑ストライプ》など、まっすぐな直線から絵の具が垂れ落ちているところや、擦れているのを見ると、物質性を感じる。それが何で構成されているものなのかと、素材そのものを認識させられる。当たり前にある物が、何で出来ているのか、そんなことを考えてみるのも、物の本質を捉えて行く上で重要な働きではないだろうか。

青山悟(ミシン刺繍)+平石博一(音楽)
   ミシン刺繍の作品を製作することで知られる青山悟(1973−)と、音楽家の平石博一(1948−)がコラボレーションしたインスタレーション《Death Song》。暗く照明を落とした展示室内に入ると前面に大きなスクリーンが設置され、青山がミシンをカタカタカタカタ・・・・・と、ひたすら動かす作業が映像で映し出されている。そして、そのミシン音に重なるように、平石が編曲した「死の歌」が鳴り響く。「死の歌」とは、19世紀イギリスの芸術家ウィリアム・モリスが産業革命の最中、失業労働者のデモ※4に参加し警察の大弾圧により絶命した青年に向けて作った詩に、作曲家マルコム・レオナルド・ローソンがメロディーをつけた曲である。産業革命当時のイギリスの労働状況が、職のある者は残業に追われ、一方で就職難と言われる現在の日本と重なる部分があるように思う。だからこそ、展示室内に響く音が、職を求める人々、そして繰り返される日常の中で過酷な労働に勤しむ人々への応援歌ないし賛美歌にも聴こえる。
   スクリーンの両脇には、青山がミシンで刺繍した「死の歌」の五線譜が置かれている。五線譜はスポットライトを浴び、銀色の刺繍糸で煌めいていた。絶え間なく動くミシンの針先を眺めていると、糸が絡まる瞬間を見た。いくら機械とはいえ、動かしているのは人間なのだと、少しホッとした気持ちになる。しかし、ト音記号を縫い上げて行く様は実に見事で、機械の能力とそれを操る手の動きに感嘆してしまう。
産業革命により、大量生産が主流となったイギリスで、ウィリアム・モリスは生活と芸術を一致させようという思想を展開した。青山はその大量生産の折に生まれた、まさに当時の労働者が使用していたような工業用ミシンで、「労働とは」何かを問うた作品をつくっている。止めどなく鳴り響くミシン音と「死の歌」が、人々は日常を繰り返し、働き生きて行くのだという事を讃えている。

須藤由希子(絵画)
   東京や横浜の住宅地の風景を描いている須藤由希子(1978-)は、「都会に住む私たちの頭のなかは、自分の日々の生活のことで、だいたいいっぱい」※5と言う。
今回展示された作品9点は、一軒の個人宅(主に庭)をさまざまな視点から描いたもので、取り壊しが決まった家屋の持ち主に作者が依頼されて製作したものだ。ありふれた日常の中には人の手によって作られたものが多く存在する。それでもどこかで植物が顔を覗かせている。
   冒頭の彼女の言葉のように、今日は夕飯を何にするだとか、締め切り迫る課題や、恋愛や、流行のものや、仕事のことなど、多くのことに私たちは日々頭を悩ませている。煩わしい人間関係や、社会の規則に疲れ、ふと道の端っこや家の庭に目をやると可愛らしい植物。それらは都会のオアシスに他ならない。彼女の作品には、オアシス的な温かさがある。ふっと、包んでくれるような、ホッとするような。
   彼女の作品は全体的に鉛筆で描き込まれたモノクロの画面であり、所々印象的に色付けられている花々に、目が引き寄せられる。色付けられた花を取り囲む庭全体がシンプルな鉛筆の線で、緻密に再現されている。彼女は、葉っぱの一枚一枚やタイルの線など、いずれ取り壊されることになるその家の全てに敬意を示しているかのように、全てにおいて湛然に描いている。あるいは、ある景色の中の大部分を同じ調子のモノクロで描写することによって、空間全域に対して意味を与えることなく、無機質で平等な捉え方をしているとも言える。だからこそ、色付けられた箇所が、見る者に安らぎという特別な印象を与えるのだ。
   郷愁感が漂う須藤の作品を見て、私は真っ先に、23区内にある私自身の祖母の家の庭を思い出した。その祖母の家の庭に夏ミカンの木があり、遊びに行く度にミカンを捥いでお土産に持って帰っていた。私だったら、捥ぐ楽しみや、優しい祖母との思い出が詰まったこの夏ミカンに色づけをすると思った。須藤が細部まで丁寧に鉛筆の線でなぞっていくように、日常空間を丁寧になぞっていけば、新たな癒しを見つけることができるかもしれない。須藤が造り出す絵は、そのような事を思わせてくれる作品だ。

長坂常(建築)
   本展覧会における建築家の長坂常(1971−)の展示作品についてここで白状すると、初めは作品の存在に全く気づかず通り過ぎてしまった、というのが正直な所ではある。一通り展示を見た後で、あれ、長坂の作品はどこだろうと、案内図を見つつ発見した。今回展示された彼の作品は2点。《Flat Table #4 Extension》と題された木とエボキシ樹脂で出来た机。そして、美術館の階段の踊り場から覗き込む吹き抜けの空間、《関係しない関係》である。私はまさかこの空間が作品であるとは思わなかったのだ。この吹き抜けの空間は、普段は職員が通路として使用している場所なのか、資料などが棚に無造作に置かれているのが見える。そして建物の道路に面している部分がガラス張りになっており、美術館から外の様子が見える。その様子を、美術館の来館者は、階段の踊り場から覗き込むことが出来る、そうした空間だ。美術館の来館者と、美術館職員と、美術館の外の通行人という三者の視線が交差するこの場所に長坂は目を向けた。
   物が雑多に置かれている空間の壁に長坂は白い塗装を施した。そして長坂は《関係しない関係》というタイトルをつけた。無関係であった空間を長坂は「関係しない関係」に成り立たせたのだ。長坂が造り出したこの空間のように、都会には、「関係しない関係」が実に多く存在しているように思うがそれもまた意味のある「関係」であるのかもしれない。

   どれも都会に生きるからこそ創造された作品、それらが並ぶ本展覧会。美術館といえば、忙しない日常がから一歩抜け出してゆったりした時間を過ごすことのできる、非日常的な空間とも捉えられがちではある。しかし、実はそうではなく、一番生活に密接に関わっている部分を抽出して表現されたものが多く集まる日常的な場所なのかもしれない。そう思えてくる展覧会であった。未だに敷居の高いアートという言葉ではあるが、実はものすごく身近なものなのだ、という事を翻訳していくことも美術館に求められる姿であるように思う。人が違えば、感じ方も違うが、今を生きて、感じている個々人が作る作品だからこそ、どこかで共感する部分もあるはずだ。日々流れる生活の中で、立ち止まって考えることはあまり無い。美術館に来て作品を見ることで初めて、ふと足を止め、「見る事」とは、「時間」とは「労働とは」と考える機会を得ることができるのだ。もちろん、ミシンの細かい動きやそれを扱う作家の器用さ、鉛筆の線の細かさ、デザイン性に感嘆することも多いに有りだ。美術館には、作品と対面し、ゆっくり考えることのできる空間が用意されている。
展覧会のタイトルにある「メグロアドレス」の、「アドレス(address)」は、「住所」という意味の他に、「問題を解決しようとして取り組む、努力する」※6という意味も含まれており 、企画者のこの展覧会に対する意図が指し示されていたのがよくわかる。「観客と共に美術館とはいかなる場であるべきかを考えるための機会」となることが、この展覧会の目的であった。今回展示された作品の作者達は皆、私たちと同様の生活空間を生きる人たちだ。10人居れば10通りの感じ方、捉え方が存在するから、中には共感を持てないものもある。しかし、あるいは共感を持つものもあるのだ。同じ生活区域で生まれた作品が、公共性の強い公立美術館の中で提供されているからこそ、私たちは安心して足を踏み入れることが出来るのかもしれない。

脚注
※1 「穏やかさ」「平穏」「静謐」などを意味する《calm》は、保井がチーフ・ディレクターを務めるCalm Projectsのきっかけとなった作品でもある。プロジェクトについて保井は、「Calm Projectsは彫刻、絵画、ファッション、音楽、建築など、様々なジャンルの表現者が混沌とする現代社会の中に、それぞれの calm を表現し、さらに絶妙なバランスで融合させた calm を媒体に、ジャンルや地域を越え、人と人の繋がりを求めて活動するプロジェクトチームです。」と述べている。(http://yasuitomotaka.me/#a07/blogger)
※2 展覧会図録p37参照
※3 展覧会図録p69引用
※4 1887年11月13日にイギリスのトラファルガー広場で起こったデモ行動。社会主義者と失業者からなる数万人の群衆が集結し、政府に対して抗議をした。警察の弾圧によって多くの死傷者を出し、「血の日曜日事件」として知られる。
※5 須藤由希子ホームページより引用 http://www012.upp.so-net.ne.jp/mahalo/
※6 展覧会図録p12引用

参照展覧会

メグロアドレス−都会に生きる作家展
会期:2012年2月7日(火)~2012年4月1日(日)
会場:目黒区美術館
Last Updated on August 08 2018
 

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