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西川茂:interlude
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 5月 08日

copy right(c) Shigeru NISHIKAWA

視野いっぱいに広がる花畑。春の霞に包まれて、その奥行きや左右にどれほどの規模であるものかは判別出来ないが、およそ「ここからここまで」と言えぬ景色であることは直感で覚える。そしてその中空にふと目を遣ると、どうやら左右に対照的に飛んでいる何か二つの点の様なものが・・・。一方に目を向けると、画面の大きさもあってもう一方が丁度眼球の盲点にあたり、認識出来ない。両方を同時に視野に入れるにはかなりの「引き」が必要だが、限られた展示空間ではいかんせん足り無いようだ。結果的に、「dividing line 1」(2009年)と題された横幅1m80cm の作品に向かう時、画面上の全ての情報を同時に認識しようとする試みは諦めざるを得ない。では、と今度は宙に留まる物体らしきものを近づいて見ると、片や「ヘリコプター」の様であり、片や「トンボ」である・・・。

おかしな事に、ヘリコプターとトンボは画面上に左右の位置こそ違え、まるで睨み合うかの様にお互いを向き合って、静止している。無論、ヘリコプターとトンボは実寸で言えば何百倍もの大きさの違いがあるから、向き合っているとしたらバランス的に狂っていることになる。しかし不思議な事に、客観的な鑑賞者の立場がそれを許容させ、あたかも同一次元の出来事として見ているうちに、それがヘリコプターであれトンボであれ、羽音を響かせながらそこに存在している様をじっと思い、何故だか言い知れぬ静寂と、茫洋とした大きなものに包まれて身動きすら出来ない様な、まるで金縛りにあったかのごとく印象をずしりと持つ。それは最初に見た、平和で牧歌的な「お花畑」の光景からは想像だにしなかった体験でもある。

西川茂はこのように、同一画面上にヘリとトンボを共存させる事によって、時空を超えた印象を与える絵画を制作し続けている一方、ヘリもトンボも存在しない作品も並行して作っている。彼の作となれば思わず画面上に細かい点を探してしまうのは人間の性(さが)というべきものだが、そこは作者の意図とは言えない。西川の描く「何も存在しない」画面においては、空と地面とおぼしき二極が接する地平らしき線が存在し、両極の緊張と緩和が色彩の移ろいと共に画面上に交錯する。それらは主にアクリル絵具を用いて描かれており、彼の代表的な「ヘリとトンボ」のシリーズが油彩で描かれていることと対を成す。アクリルは乾きが早いので即興的な描画にも向くとされるが、西川にとってもその一連の静かな緊張を漂わす光景は、彼の描こうとする「風景の連続」の一端を掴まんとする試みであり、大きさや時間、具体的な情報を何一つ提示しないことによる、普遍的な意識の広がりであると言えるのだろう。そこに視覚から得られる情報は少なくとも、微かな湿度、空気の澱み、静寂の中の微かなノイズを感じ取ることが出来れば、私達の五感はさらに風景に呑み込まれていくであろう。

あるいはまた、「Noise」(2006)と題されたシリーズでは「ヘリとトンボ」が描かれるも、周囲の風景は局地的な混沌に陥り、あるいはその一歩手前の不穏な空気、微かに発生しだした電磁波のような現象が描かれており、前出の花畑の一見して平穏に見える光景とは趣を異にする。

 しかしながらヘリコプターの爆音とトンボの微かな羽音を同時に感じる時、即ちそれは現実にはあり得ない状況をシンクロして体感するとき、私達の目の前に広がる地平も混沌も花畑も、それが一瞬の様でありながらも永遠に存在し得るものと感じ、絵に描かれている瞬間こそ、その長い年月のうちの奇跡的なほんの一瞬、目を瞑ればすぐに過ぎ去ってしまうような出来事であることも知る。

何とも不思議な絵画である。作家は近畿大学理工学部の土木工学科環境デザインコースを中退し、改めて美術の道を志した経歴を持つ。予め彼のアイデアには、平面に留まらぬ「環境」、即ち自己を取り巻くあらゆる気配や存在を、二次元に凝縮したいと言う願望があったのだろうか。大画面の迫力とディテールの緻密さ。そして流れる時間の緩急は見事に描き分けられ、穏やかな印象とは裏腹な胸騒ぎが沸き起こる。事の真偽はぜひ、東京での初個展となるこの機会に確かめて頂きたい。

※全文提供: neutron tokyo

最終更新 2009年 6月 24日
 

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