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飯田真人:NEW MODEL Exhibition
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 5月 06日

copy right(c) Masato IIDA

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が地域伝承を基にした童話であり寓話であるならば、松本零士の「銀河鉄道999」はまさに、戦後のものづくり立国に邁進する日本における未来への神話であり、同時に、振り向かざるを得ない過去との決別の話でもあった。両者に共通するのは、少年が大人になる為に発たなければならない、宇宙という未知の大海原へ向かう片道切符の旅であり、その乗り物として選ばれたのが、到底近代的とは言えないSL機関車であると言う事だ。・・・もっとも、宮沢賢治が死去したことで遺稿となった前者は1933年の発表だから、SL機関車は当時として先端技術であったのだが、松本零士はそれを宮沢賢治へのオマージュとするだけでなく、「少年が宇宙へ旅するには、その乗り物は中身こそ未来的な機能を備えた最先端のものであったとしても、外観は郷愁を誘う蒸気機関車でなければならない・・・」と書いている。「なければならない」のは何故か、子供の頃には良く分からなかったが、大人と呼ばれる年齢に達してふと思うとき、不思議と合点がいったのである。おそらくは飯田真人もまた、そう感じた一人なのであろう。

子供の頃にはよくプラモデルを買ってもらい、作った。今はフィギュアと呼ばれる人形の全盛期らしいが、私にはその魅力がよく分からない。なぜならフィギュアはその造形を職人が請け負っており、私はただそれを眺めるしかないからだ。元来、人形は人間の念を込めたり、時に人柱としての身代わりとして成り立ったものであるため、精巧で不気味なくらいでいいのであろう。そこに素人が作り手として手を入れる余地はないのだが、プラモデルは違う。パッケージの完成写真やイラストを見ながら、その制作過程や難易度をイメージし、自分の好きなモチーフを選び、ワクワクしながら箱を開ける瞬間。それはまだ繋ぎ止められたパーツでしかないもの達だが、少年の目にはそのパーツですら魅力的に輝いて見える。一体どこに使われるのか想像し難い部品でも、大切なものと認識し、ゴクリと唾を飲む。そしておもむろに袋を開け、ハサミでパーツを丁寧に切り取り、やすりをかけ・・・気づけば接着剤の匂いで換気が必要なほど、部屋の空気は静かに淀み、制作に向かう集中力は親もびっくりするほどであった。その幸福な時間を今になって味わいたいと思っても、なかなかそうはいかない。時間と気持ちの余裕が無ければ出来ない遊びなのだ。そしてそれは子供にとっては単なる遊びではなく、集中力と忍耐と想像力を養う上での格好の教材でもあったのだ。

 だからこそ、飯田真人の作品は私の目に一際輝いて見える。彼は大人になってもプラモデルを作るのをやめなかったのだ。いや、正確には彼の作品は全て木製であり、アクリル絵具で着色しているのだが。その形状も質感も、まさに子供の頃に見たプラモデルの延長線上にあるのは間違いないのだが、もっと大きい。彼が美術作品として生み出す意義はその大きさと存在感にある。プラモデルはどちらかと言えば、踏めば壊れる繊細な工芸品としてのものに近かったのかもしれないが、飯田真人の作品は幼児が身を委ねる遊具のように安心感がある。蒸気機関車はもちろん、電車の形状が一目で分かるものもあれば、何のための装置かよく分からない形状のもの(それは分配器かも知れないし、何かのスイッチかも知れないし、はたまた何でも無いかも知れない)もこれ見よがしに展示され、機能の有る / 無しに関わらず(機能美を訴えたいのだが、機能は分からないという面白いジレンマを抱える)、鑑賞者は懐かしき「ものづくり」の時代の温かみと、コンピューターに依存しない想像力の大切さ、木を削ってものを作るという初歩的な遊びの大きな可能性を知るだろう。そして大人になっても銀河鉄道を忘れないこと、子供達にそのストーリーを語ることを密かに思うだろう。

大阪の町工場が力を合わせて人工衛星を飛ばそうとする時代である。その根底にあるのは、日本のものづくりの気概と情熱。そして一つ一つは零細でも、個々の磨き上げた技術力を結集する素晴らしさ。飯田真人が夢を捨てない限り、日本の職人達が空を見上げる限り、銀河鉄道は子供達に受け継がれ、いつか夜空を翔る日も、そう遠く無いだろう。

※全文提供: neutron tokyo

最終更新 2009年 6月 03日
 

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