池田武史:666 or more malignant songs which should be forgotten immediately after they're played |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2011年 10月 01日 |
池田を理解するのにはまず、ハードコアという音楽ジャンルについて知らなければならないと思った。 ハードコアとはWikipediaによると、『正式名称ハードコア・パンク。パンクの派生形。ニュー・ウェイヴからの影響を隠さないバンドも多い』とのこと。わたしはパンクやニューウェイブは大好きだったから、理解するのは簡単かもしれないと軽い気持ちで彼のバンドや、代表的なハードコアバンドの音楽を聴いてみたが、一向にわからなかった。というより、まったく興味がわかなかった。このどこが「パンク」や「ニューウェイブ」に影響を受けているのかさっぱり理解できなかった。 しかしながら彼や彼の作品に触れるうちに、ハードコアはあくまでも彼の表現ツールでしかなさそうだということがわかった。彼の表現の根底となる概念は「時間」である。彼はハードコアを「過剰であるが故に消費されやすい」音楽であると言うが、彼は自身が慣れ親しんでいる音楽を用いて、「時間」という普遍的なテーマについて検証しようとしているのである。それは、池田が本来もつ「自分をなくしたい」という、ある意味根源的な欲求が、「時間についてもっと知りたい」、という欲求に変容したものであるようだ。たしかに、自分を確実になくしてくれる存在は、時間かもしれない。 美術においては、彼のように時間の概念を問うような表現、転じて、知覚のあり方を問うようなコンセプトについては、ナウム・ガボの「リアリズム宣言」(1920)の視点にもあるものだし、50年代のハプニングやフルクサスに属した作家から、F・ゴンザレス・トレスや、クリスチャン・マークレーなどのおもにコンセプチュアルな現代作家にも多くみられることである。時間や知覚を表現することは、単なる美術史上のムーブメントではなくおそらく人間の根源的な欲求であり、だからこそ上記した作家たちの様にそれは様式にとらわれないハイブリッドな表現になるのだろう。2011年におけるそれは、アナルカント×トマト×ビデオとなったのだ。 およそ1秒から30秒程度の「ワー!」とか「グギャー!」だけで、構成されるCDを高校生の頃に手にし、「このバンドはどんなライブをするのか」と思ってドイツより取り寄せたブートのビデオで映っていた模様は、30分くらいのライブでそんな短い曲をたった4曲くらいしかやらず、最初の曲に至っては「ワン・ツー・スリー・フォー」とカウントして、全員楽器を放り出して客席にダイヴするメンバー達でした。 全文提供: AI KOWADA GALLERY 会期: 2011年10月1日(土)~2011年11月5日(土) |
最終更新 2011年 10月 01日 |