伊藤英二郎:自我と記憶と複製について |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2011年 7月 02日 |
《jeux de cartes(カード遊び)》シリーズより | イメージ/エングレービング、インク彩色、文字/デジタルプリント | 画像提供:キドプレス | Copyright© Eijiro Ito パリ在住のアーティスト伊藤英二郎による版画展。 1971年岩手県に生まれた伊藤は、24歳で単身渡仏しました。その後、同版画工房の名門アトリエコントルポアン(旧アトリエ17)へ所属。28〜32歳に間にはアシスタントとして在籍します。版画史では革命的な発見となった「ヘイター刷り」の生みの親、S.W.ヘイターが創設した歴史ある版画工房で、色面分割、線のオートマティズム、構成的線等といったイメージの理論形成について多くを学びました。また、ここを訪れる世界中のアーティストとの出会いも、芸術表現の幅を大きく拡げることとなります。 一方で、この頃の伊藤はシュールレアリズムや、ウィリアムブレイクの詩や作品に影響を受けながら、自己特有の表現を模索しました。 伊藤英二郎の作品世界には、どことなく失われゆく記憶への慈恵の思いが感じられます。 伊藤は指摘しています。「一つは複製物としての版画と対面する以上消費社会を再度見つめなければならなかった。」スピードや量産、簡潔性やインパクトが優先されてきた記憶を忘却するシステムをつくりだした資本主義社会で、重要な役割を担う“言葉”というツールが忘れてはならない大切な記憶までも、淘汰して来ているという事に起因している」と。 言葉によって記憶を語り継ぐ事は、捉える者・状況によって、さまざまに意味合いが変わり、長い年月をかけて本質を曖昧なものとし、時には、自ら思考することや、痛みを感じる心、社会の持つ責任など、人が失ってはならない記憶さえも現代の消費社会の時間の流れの中へ置き忘れて来ているのではないか・・・そういった問題意識から着想されていったのが、“jeux de cartes(カード遊び)”シリーズです。 世界でインフラを起こしているマンガについて諷刺と告発的なアプローチを意識して作られています。イメージはペンの表現にも似たエングレービングで銅版を刻み、直接着彩し、マンガの付記だしのように書かれた”言語”は透明なセルロイド紙に貼付けられています。 作家は「私たちは”読む行為”を無意識に無防備に行っている。」と考え、イメージと言葉には一見すると何の関連性もなく、言葉は取り替え可能なものとして存在しています。イコンとしてのイメージと、シンボリックな言語に自由を与えようというコンセプトのもと制作されたものです。 また“記憶の連作”シリーズは、版画というものが「行為としての記憶を刻印する媒体」であるということ、そして、私たちの日常が「目の前に起きる現象を脳裏に記憶する」その行為の積み重ねで形成されているということ、それを並行的に考える事でアプローチした作品です。 伊藤 英二郎 /Eijiro Ito 全文提供: キドプレス 会期: 2011年7月23日(土)-2011年9月3日(土) |
最終更新 2011年 7月 23日 |
壁に並ぶハガキ大の作品“jeux de cartes(カード遊び)”シリーズには、マンガのようなタッチで描かれた有名人の顔やキャラクター、女の子などが刷られている。その上に重ねられている別紙には、吹き出しの中に記されたフランス語の言葉。言葉と画の関係性から、シニフィアン(言語学上の、「意味しているもの」、「表しているもの」)とシニフィエ(同上、「意味されているもの」、「表されているもの」)の関係を考えたり、両者が別紙に刷られていることから、目の前の両者の繋がりの一時性を思ったりと、様々な思考を呼び起こす作品。
また、“記憶の連作”シリーズでは、同じモチーフを使いながら位置を変えたり、色彩を変えたりした作品が並ぶ。版画という「複製」を可能にした手法に眼が向く一方、絶えず変化していく陽の光を示しているような色彩を使っているというギャップが興味深い。
ポップな表の姿に秘められた、「版画」というものを捉えなおそうとする作者の試みに唸らされる展覧会だ。