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高嶺格:とおくてよくみえない(2/2ページ)
レビュー
執筆: 田中 麻帆   
公開日: 2011年 6月 20日
{gallery="横浜美術館" related="高嶺格:The SUPERCAPACITOR/スーパーキャパシタ" artist="高嶺格" text="会期:2010年1月21日~2011年3月20日 会場:横浜美術館
横浜美術館に入ると、早速いつもとは違う風景に遭遇した。この美術館は企画展示室が二階にあり、一階からエスカレーターで上って行く構造になっている。今回は、普段下からも見える二階の・・・" image=thumb2011a/review20110620008.jpg writer="田中 麻帆"}

「物語る」という方法

fig. 4  《Do what you want if you want as you want》
2001年(2011年再制作)
モニター、DVD(7分)[2001年 、エルサレムで撮影]
横浜美術館での展示風景、撮影:今井智己

fig. 5  《God Bless America》 2002年
プロジェクター、コンピューター、油粘土、カーペット
(8分18秒)
横浜美術館での展示風景、撮影:今井智己

    ますますわからなくなり次の展示室へと進んだ。展示室には二つの映像作品があり、ひとつはディスプレイが組み合わされたインスタレーション。もう一方は大きなスクリーンにクレイアニメーションが映写されている。両者とも、「物語る」という方法それ自体に対し意識的であるようだ。
    まず展示室入って左の奥には《Do what you want if you want as you want》(2001年(2011年再制作))[fig.4]がある。作品は電光掲示板と三つの小さなディスプレイから成り、ディスプレイにはある人物が熱心に話す姿が断片的に映され音声も流れる。同時に、電光掲示板にはその話の和訳文が流れていく。これはパレスチナ問題に関して深刻な体験を語る友人の女性をエルサレムにて撮影した映像である。キャプションには、友人がインタヴューの途中で怒って帰ってしまった旨や、本当に作家が彼女を友人と思っていたのかどうか、これはパレスチナ問題についての作品なのかといった問いが提示されている。この女性は市民を巻き込む紛争の酷さ、それをマスコミに発表したもののイスラエル政府に妨害されたことをインタヴューの中で暴露している。
    ディスプレイには女性と、インタヴューが行われたカフェの背後に見える街角の風景がごく断片的に映されている。女性が感情を高ぶらせ語る声と、淡々と相槌を打つ作家の声が音声で流れているのだが、突然、ここにも罠があるのかもしれないという感覚が生じてきた。断片的に映っている人物は大きなジェスチャーから語り手の女性だと思い込んでいたが、よくよく見ると顔や髪形、体型の特徴はうかがい知れず、映像の上で女性だということを保証する根拠などない。もしやこれは男性で、撮るべき友人が帰ってしまったあと、作家自身がカメラの前で適当に手を振り回していただけなのではないか、という疑いすら生まれる。※6
    迫真性を出すための演出は、ある人から話を聞きひとつのリアルな物語として編むという作業にどうしてもつきまとう側面だろう。その意味で高嶺もこの女性の証言を「物語化」したと言える。《Do what you want if you want as you want》(君がやりたいようにやりたいなら、やりたいことをやればいいじゃないか)というタイトルからは、一見相互交流を求めている二者の間にも、利己的な理由が潜む危険性すら想起される。私達は時にリアリスティックに「物語る」ことで、事実をねじ曲げてしまってはいないだろうか。それは国際問題から個人的な人間関係に至るまでのあらゆるレベルで起こりうる「政治」かもしれない。
    一方、同じ展示室にあるもうひとつの映像作品《God Bless America》(2002年)[fig.5]では、もはや崩されてしまったアメリカの「神話」が示されている。画面中央には粘土でできた巨大な顔がある。高嶺は自ら粘土を何度もこね、その様子を撮影した映像に早送りなどの編集を加えることで、粘土の顔が動くコマ撮りアニメーションを作り上げた。
    粘土の顔が愛国歌「God Bless America」を謳うその声は蓄音機の音色のようで、過ぎ去ったものとしての印象を強める。一見モニュメントのように見えるこの顔は、永久に朽ちない記念碑ではなく可塑的な粘土によって作られていて、作家が加工するたびに形を変えていく。粘土の顔の後ろにのぞくのは恐らく、作家が寝食もしているスタジオのインテリア。高嶺と彼の恋人はこの部屋で粘土をこねなおし、時に放っておき、友人を招くこともあれば、スキンシップをとっていることもある。※7 アメリカの「顔」は高嶺らの日々の営みの一部になっており、次々に形を変えられ、英雄的なロケットとカウボーイになったかと思うと「自由を守るために戦い続ける」という名言の後、従順そうな子犬になってしっぽを振る。しかし正直に言えば、この粘土よりも後ろで様々な関係を紡ぐ恋人たちの方が気になってしまう。ここでは聖と俗が転倒し、神話が日常に従属している。「正義」や「自由」といった大義名分を掲げ、編まれた物語の裏側からのぞき見えるものに、むしろ私達の目は惹きつけられる。

fig. 6  《ベイビー・インサドン》 2004年
発色現像方式印画、アクリルマウント、DVD、モニター
横浜美術館での展示風景、撮影:今井智己

    更に部屋を進むと、物語化に対する高嶺の視線について、よりプライベートな観点から理解できる。とはいえ「理解できる」といった表現をしてしまってよいのかどうかと、この《ベイビー・インサドン》(2004年)[fig.6]は思わせる。高嶺には在日韓国人の恋人がおり、ある日突然彼女から「在日に対して日本人がもつ嫌悪感」の所以について問われた、というエピソードから作品が始まる。この作品は、2人の結婚式を中心に撮影したスナップ写真を横一列につなげ、高嶺が彼女の父親(アボジ)や、親世代の思いを受け継ぎながら日本で育った恋人ら2世それぞれが抱えてきた複雑な内心に触れ、自身の先入観との違いに気づいてゆく経緯を、モノローグを添えて表現している。
    もちろん、書かれたモノローグが作家の人生に密接した切実なものであることは確かだ。しかし、そのように一連の経緯を作品として示すことで物語化されてしまうことに対し、高嶺は自覚的なようだ。例えば写真はところどころ白黒のものがあり、カラーのものや部分的に着色されているものもあり、マウントのアクリル板にも様々な色がつけられている。モノローグの途中で、高嶺はそれまで理解できなかったアボジの本当の気持ちに触れる。その気付きを語る文章と同じ箇所で、意識の変化に合わせるように写真も白黒からカラーへと色づく。その後、モノローグでは、高嶺が異なる背景を持つ両家を結婚式の場で打ち解けさせるため、「エイリアン」であるナジャというドラァグ・クイーンに余興を頼んだことが語られる。背景のアクリル板が黄色から補色の濃い紫へと急激に変わり、起承転結でいうところの転の印象を醸す。更にナジャの踊るシーンだけは映像がはめ込まれており、静かな写真の中で一点賑やかな雰囲気を放つ。しかし、すぐ手前に並ぶ数枚の写真はなぜか結婚式の集合写真であり、はっきりと確認できないもののナジャがその中に写っていないようにも見える。本当に彼女はここに参加していたのだろうか。後からの編集でこの写真の連なりに付加されただけなのではないか?といった疑問すら生まれる。※8
    モノローグはこののち突然、母親が小さな子供に聞かせるおとぎ話のようになる。それによるとナジャの踊りで皆はいったん一体感を得たものの、ナジャを信用しない人がいたせいで、またふたつに分かれてしまったという。(モノローグは日・韓・英語でそれぞれ平行のラインを描いていたが、おとぎ話の部分だけ日韓の文章が波打ち交錯する。ただし決して「交差」はしない。交わる部分にどちらかの文字を優先して示せば、もう一方の言語の構文が成り立たなくなるからか。)
    編集の匂いを漂わせながら提示される明快なおとぎ話は、誰かの人生をドキュメントする際に、特定の感動的瞬間を設け安易にカタルシスを得ることへの皮肉なのだろうか。実際には、相互理解や共感といったものはそんなに瞬間的にドラマチックに得られるものではないだろう。モノローグの最後でも語られているとおり、長い人生の間に各自が探し続けていくものだから。


「記憶」と「復讐」

fig. 7  《とおくてよくみえない》 2011年
陶、コンピューター、プロジェクター、スピーカー、鏡
(10分16秒)
音響・プログラミング:松本祐一/映像:小西小多郎
横浜美術館での展示風景、撮影:今井智己

fig. 8  《木村さん》 2011年
(2004年、パン・パシフィック横浜ベイホテル東急にて)
(At Pan Pacific Yokohama Bay Hotel Tokyu in 2004)
発色現像方式印画、アクリルマウント
横浜美術館での展示風景、撮影:今井智己

    最後にこの展覧会のメインと思われる《とおくてよくみえない》[fig.7]の展示室に入った。入口は正面がわざとふさがれ、横からかがまないと入れない。真っ暗な展示室の中では、正面中央の大きなスクリーンに映像が流され、他にも小さなスポット状の映像が5つほど縦横無尽に乱舞している。日韓英中仏独と、多カ国語のメッセージも、文字と音声で流れている。
    大きなスクリーンに映るのは、様々な年齢層の男女のシルエット。彼らは画面左右から歩いて来ては、時折地面に四つん這いになり、身体をかすかに上下させる。どうやら地面に生えている無数の物体を舐めているようだ。その物体はシルエットからは詳しく判別できないものの、細長い何か。更に、スポット状の映像はせわしくあちこちに過ぎ去っていくためはっきりとは見てとれないが、誰かの口が映り、スクリーンの映像と同じく何か白くて細長いものを口に含んでいる人々も映る。文字と音声は、「目を見開いたまま、すべてを見ようとするな」、「口を開けよ」、「まだ屈してはならない」そして「まだ抗ってはならない」といったメッセージを訴えている。最も強調されているのは「記憶をしゃぶれ」、「そしてきみの復讐を成し遂げよ」という言葉だ。ここでいう「記憶」そして「復讐」とは一体何なのだろう。

    その意味を考えるためにも、一旦話を展覧会入口の作品に戻したい。あまりにも質素な展示をされていて、私は展覧会を見終わるまでその存在に気付くことができなかった。しかし実はこの写真作品《木村さん、2004年、パン・パシフィック横浜ベイホテル東急にて》[fig.8]は、《とおくてよくみえない》と対応し、本展の根幹をなす作品とも言える。写真はフレームにも入れられず直接柱に貼り付けられており、キャプションに至ってはただ床に置かれているだけ。以前高嶺は、重度の障害者である木村さんという男性をボランティアで介護していた。そして木村さんを性介護する様子を映像化したが、その作品は2004年に予定されていた横浜美術館での展示を中止せざるを得なかったという経緯がある。※9
    同じく展覧会入口にあった先述の《野性の法則》では、展覧会場の周囲を布が閉鎖的に取り囲み、内側から風を当てられていた。中から聞こえてくる音は、動物の鳴き声や人間のうめき声のようでもあり、生命力や有機性を感じさせる。展示会場の外側へとふくらむ布は、中から外へ出ようとするかのようにうごめき、制約や拘束から脱しようともがく力のようでもある。木村さんの写真には、ベッドに横たわり、頭の周囲に花を飾られた彼の笑顔だけが写っている。首から下の身体は殆ど写っていない。展示中止となった作品の是非について、簡単に結論を下すことはできないだろう。とはいえこの写真は、美術館という制度において隠され、管理されてしまうものがあるという事実を突き付ける。
    このことを踏まえ、話を《とおくてよくみえない》に戻せば、スクリーンやスポットに映っていた細長い突起物や、それを這いつくばってしゃぶる行為はいかにも性的で、「禁忌」のイメージを喚起する。「記憶をしゃぶれ」という高嶺のメッセージを逐語的に当てはめるなら、白い突起物はつまり「記憶」となるのだろうか。それをしゃぶる人たちは屈服し恥辱にまみれているように見えつつ、実はその行為によって「記憶」の全能感を破壊し、主従関係を転覆しようと企んでいるかのようだ。高嶺はおそらくこの「記憶」に対し、「物語」そして美術の歴史に対するのと同様の思いを込めている。
    本展の入口は、囚われた生命力や動物園のようなイメージに取り囲まれていたが、動物園と同じく、美術館が体系化されはじめたのはここ200年程度の話だ。高嶺は展覧会の中で、脈々と受け継がれ大樹を成したかに見える美術に関する言説の系図、この物語に収まりきらないものを次々と示すことで、美術史におけるタブーを舐め溶かし、「復讐」する可能性を提示したのかもしれない。※10
    最後の展示室を出ると、先の映像に出てきた白い突起物が展示されており、正体がわかる。それは何十個もの陶器で、あからさまな男性器の形やきのこ、鍾乳石、リスのようなものまであり、各イメージ間を行き来するような抽象的な形状もある。釉を多めにかけ、あたかも溶け始めているかに見えるものもあるが、これら堅い陶器を実際に舐め溶かすには200年以上かかるかもしれず、もしかするとそれは堅固すぎて不可能かもしれない。美術に関する物語の系統樹は「とおく」にありすぎて、そんなに簡単には打ち崩せないことも高嶺はわかっているようだ。
    陶器の置かれている出口には黒板のような壁があり、先程の《とおくてよくみえない》に出てきたメッセージが手書きで再度示されている。「屈してはならない」「抗ってはならない」という矛盾する言葉は、美術史に対しても、それを解体する企図に対しても再考を促そうとするかに見える。「記憶をしゃぶれ」と説きつつ、「眠りの時」にはその行為を止め、「次の時までとっておけ」という語りも加わることによって、本当に「よくみえる」ようになるには長い年月が必要だということに思い至らされる。

    展覧会全体が矛盾や皮肉、理解し合えないもどかしさを提示しつつも、なぜか高嶺作品には観者を楽しませ、前進させようとする力がある。逆の言い方をすれば、高嶺作品を鑑賞するためには、共感するにしろ反感を覚えるにしろ、自らの問題に引き付けて能動的に見進めていかざるを得ない。更に奇妙なことにそれは、強制的に押し付けられた能動性という矛盾をもはらむ。
    出口の黒板に書かれた文章の説諭的な口調からして、作家は自身のメッセージに含まれる教育的側面にも気付いているようだ。この展覧会もまたひとつのディシプリンだという種明かしをすることで、高嶺は観者を最後の罠にはめる。作品の中で皮肉ってきたルールに敢えて則り、避けがたく自身に折り返してくる皮肉の本質を露わにする。このことで高嶺は見る者を刺激し/励まして、それぞれの観者が傍観者ではなく、自発的な行為者となるよう望んでいるのかもしれない。


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脚注

※6 本作品に関する推測は、あくまで筆者の個人的な感想である。以下の記事からは、別の解釈の可能性も多分に窺える。
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_itv/6I4KAvaUQ3BrWup58yPc

※7 恋人同士のように演出されているものの、実際にはそうではないという。

※8 高嶺の自著『在日の恋人』(河出書房新社、2008年)の結婚式当時の日記によると、ナジャは実際に結婚式に招かれ余興を行い、両家の好評を博したという。一方、展示作品の《ベイビー・インサドン》からはフォーマルな場がもつある種の排他性が想起される。この作品においてナジャは異なる二つの立場の溝を解消する、どちらの極にも属さない存在として強調されている。更に、おとぎ話の筋書きが示すように、「エイリアン」のナジャがもたらした和解は束の間のものとして象徴的に扱われている。

※9 「ノンセクト・ラディカル 現代の写真Ⅲ」という展覧会。
http://www.yaf.or.jp/yma/archive/2010/849.php

※10 本展の作品《A Big Blow-job》のタイトルは、高嶺によれば「大きなフェラチオ」という意味。その「受動性は完全ではない」と語るサルトルの言葉に、つまり能動性や攻撃性を秘めているという点に高嶺は興味を持ったという。 前掲展覧会カタログ、pp.104-05参照。


参照展覧会

「高嶺格:とおくてよくみえない」
会場:横浜美術館
期間:2010年1月21日~2011年3月20日(後、広島市現代美術館へ巡回)

最終更新 2015年 10月 13日
 

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