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内海聖史:さくらのなかりせば
編集部ノート
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2011年 4月 20日

画像提供:ギャラリエ アンドウ|Copyright © Satoshi Uchiumi

    桜の美しさとは何だろうか。それを定義するのは難しいが、その1つに色彩があることは確かだろう。絵画もまた絵具の持つ色彩の美しさが人々を魅了してきた。つまり、花見も美術鑑賞も色彩を愛でる行為と言えるのかもしれない。桜咲く4月に開催された内海聖史の個展「さくらのなかりせば」はそんな色彩の強さ、美しさを体感できる展示である。
    ギャラリーに入ると大画面のキャンヴァスから放たれるピンクの鮮やかさに足が立ち止まる。まるで満開の桜を前に足を止めてしまうように。
    今展は『色彩の下2011-3』(2011年、oil on canvas、2054x5553mm)が1点のみ中央で湾曲するように展示されている。鑑賞者は大画面に包み込まれるように色彩を浴びる。色彩はピンクが主だが、青や緑、赤や白など多彩な色彩がグラデーションの中に見え隠れしつつ、全体はピンクへと統一されている。まるで花見をするように、画面に対して距離を変えながら見ていくと全体と細部で異なるイメージが紡がれだす。
    また、照明の反射光が壁にあたり、壁面や空間全体がうっすらとピンク色に染まっている様は、さながら桜の花びらが地面へと降り注いでいるかのようだ。桜に例えるならば、花びらが1枚では白く、木々の集まりで見るとピンクに見えるように色の集積が空間全体を染め上げるようだ。ピンクは色幅が広く、空間全体に広がるような鮮やかさを湛えていることに気づく。
    ところで、内海の作品はこれまで明確なイメージや言葉、色彩の名を用いてこなかった。だが、今展では初めて「さくら」という具体的な言葉を展覧会タイトルに冠している。しかし、会場で作品を見ればわかるように、実は「桜」が描かれているわけではない。ピンクという色彩が日本人にとって否応なく「桜」を喚起させてしまう色彩のため、内海はそれを避けるのではなく色彩が喚起させるイメージに寄り添うように今展の作品を制作した。例え描かれた色彩が「桜」という言葉を想起させ、心の襞に重なろうとも、桜とは異なる絵画独自の色彩表現が鑑賞者の眼を染め上げることだろう。
    芭蕉の句で「さまざまのこと思ひ出す桜かな」という句がある。内海はさまざまな想起へと誘う桜のように絵画へまなざしを向けさせる。散り行く桜からは鮮やかな新緑の芽が出てきているが、ギャラリーで今しか見られない春の色彩を楽しみたい。桜とは違って、散ることがない絵画の美しさを見るために。

最終更新 2011年 4月 22日
 

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