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大木裕之 展:「21世紀の思想哲学」の前夜祭 - フィクション3
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2008年 10月 02日

松前君の愛の日記帳 (2008年~) ビデオ 画像提供: ARATANIURANO copy right(c) 2008 ARATANIURANO

メイ (2004~2008年) ビデオ produced by FOU production 画像提供: ARATANIURANO copy right(c) 2008 ARATANIURANO

大木裕之は、東京大学工学部建築学科在学中の80年代後半より映像制作を始めました。1991年からは高知県に制作活動の拠点を置くようになり、「ターチトリップ」(1992-93)など、初期の代表作群を立て続けに制作、1995年には「天国の六つの箱 HEAVEN-6-BOX」(1994-95)で、第45回ベルリン国際映画祭ネットパック賞を受賞しました。 その後も、サンダンス映画祭、ロッテルダム国際映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭など数々の映画祭で作品が招待上映され、高い評価を得ています。また、大木の表現活動は、映像制作のみに留まらず、ライブ上映、インスタレーション、身体パフォーマンス、ドローイングやペインティング作品にまで及び、1999年の「時代の体温」(世田谷美術館)を皮切りに、「GAME OVER」(2000年ワタリウム美術館)、「How Latitudes Become Forms」(2003年ウォーカーアートセンター、米国)、「六本木クロッシング」(2004年森美術館)、シャールジャ・ビエンナーレ(2007年)、「Out of the Ordinary」(2007年ロサンゼルス現代美術館 MOCA、米国)、「マイクロポップの時代:夏への扉」(2007年水戸芸術館)など、国内外の展覧会にも多数参加し、現代美術のシーンでも常に注目を集めています。 本展の展覧会タイトルが示すように、大木は、映像というメディアを通して、「思考すること」を真摯に探求し続けることにより、我々の生きているこの世界を捉え、肯定し、また更新することができる稀有な作家です。 かつて大学で建築を学んだ大木はこう言います。

「今でも僕は建築家のつもりでいるんだ」「僕が目指す建築は人々の生活とその関係性を含めた総合的な表現手段なんだ。それを今アクションすると映画になる。人も物も時間も色々なもの全てを扱えるから僕の考える建築に近い」

今回の展示で発表される約6つの映像作品は、大木のここ5年間の活動の骨格を成す重要な作品群です。中国、チベット、アリゾナ、イスラエルや、高知、北海道、東京など様々な場所やコミュニティで、長期にわたりビデオカメラで撮影されたこれらの映像作品では、人々の営み、宗教、政治、美しい自然、街角、深夜の独白、少年の笑顔、音楽、セクシャリティーなど日常の様々な瞬間が、楽譜のような独自のタイムシートによる綿密な編集と、オーバーラップやクロースアップ、露出オーバーなどの手法により、独特の浮遊感と緊張感をもって詩的に紡がれています。 日記のようなプライベートフィルムとも、所謂映画フィクションとも異なる、日常とも非日常ともつかない独特の時間空間を手に入れたその映像は、大木が、感じ、考える建築であり、哲学であり、宗教観や宇宙観です。きっと、その光の放射の中で、観る者の感覚は解き放たれ、揺り動かされ、日常に潜む可能性や世界の豊かさに気づかされることでしょう。 21世紀の思想哲学のスタートラインに立つきっかけを作りたいと大木は言います。そして、その役割は映像こそ相応しいと。 大木裕之の集大成であり、新たな出発点と言える本展覧会の広報にご協力賜りたく、ここにご案内致します。
※全文提供: ARATANIURANO
最終更新 2008年 10月 04日
 

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