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ラブラブショー
レビュー
執筆: 桝田 倫広   
公開日: 2010年 3月 01日

fig. 1 岡崎京子×伊藤隆介《ジオラマボーイ パノラマガール》2009年展示風景|画像提供:青森県立美術館

fig. 2 立石大河亞×松村泰三《観光~光を観る》2009年展示風景|画像提供:青森県立美術館

    2000年代以来、「異種混交」、「ハイブリッド」、「クロスディシプリン」などといった言葉が展覧会のテーマに飛び交い、アートやデザイン、ハイカルチャーやサブカルチャーの枠を飛び越えた作品群が美術館に展示されることは、珍しくない。青森県立美術館と十和田市現代美術館の両館で同時開催された展覧会「ラブラブショー」も、いわばそのような異種混交的なジャンルにまたがる作家のコラボレーション-「出会い」-をテーマにしたものだった。例えば青森県立美術館では、絵画のような鈴木理策の写真と写真のような遠山裕崇の絵画とを併置した展示室から始まり、美術家奥村雄樹は、ミュージシャン曽我部恵一がギターの胴体にある穴に囁く歌声を、展示室の地面から伸びる土管から響かせるインスタレーションを作り上げ、映像作家の伊藤隆介は、岡崎京子による漫画の世界観やモチーフを引用し、彼女へのオマージュとも言うべき作品世界を構築していた[fig. 1]。一方、同時開催の十和田市現代美術館では、漫画家ロビン西の描く奇妙奇天烈な生き物やロボットを、立体造形作家のKIMURAが「バカ機械」として具現化した。美術家秋山さやかによる自身の歩みの軌跡を大きな布地の地図に刺繍した作品は、吉田初三郎が大正時代から昭和初期にかけて作成した鳥瞰図法による観光地図と併置して展示されていた。異なるジャンル、異なる手法、異なる時代の作家たちの作品を敢えて同じ空間に置いて見せることは、いわゆるポストモダン的な常套手段でもあるし、アートやデザイン、文学、音楽など個々の領域に関心を持つ人々を同時に巻き込み、大規模な集客を見込むひとつの手段でもあるだろう。(現に私が出会った飲み屋のバーテンも、曽我部恵一のライブがあったから美術館へ行った、と話してくれた。)

    しかし、さまざまな表現領域をまたぐこの展覧会が体現しているものは、当世の現代美術のありよう、いわばクロスディシプリナリーな動向を、学芸員なりキュレーターが観客に見せる、あるいは体験させるというものではないだろう。はたまた、多様なジャンルの作品をひとつの展覧会にまとめることで、集客を期待するものでも恐らくない。むしろ「ラブラブショー」は徹頭徹尾、作家と作家とが、また観客が作品や他者に「出会う」こと、あるいは関わっていくこと、それ自体に主眼が置かれている。例えば、鑑賞者は入り口で「トモダチになろうよ」というサインを手に入れることができる。そのサインをつけている人は「声をかけてね」の合図を周りに送ることになる。このサインによって、普段は声を出すことさえ憚られる展覧会会場は、他者と出会う場所として用意される。(実際には、二時間ほど美術館にいただけでは、残念ながらそのサインをつけていた人を見つけることはなかったけれども。)また、バスで約二時間の両館を無料送迎バスが一日二便ずつ往復しており、乗車する際に乗客はシールを手渡され、両館の橋渡しを行った証拠として、到着した美術館の入り口の壁にそれを貼るよう促される。乗客(鑑賞者)のシールを張るという行為は、いわば鑑賞者の移動が美術館の展示を彩ること、つまり展示に積極的に関わっていく行為と言ったら言い過ぎだろうか。そもそも巡回展ではなく「ケンビ」と「ゲンビ」という別々の性格を持つ美術館による同時開催-「出会う」-という試みは、単館での企画の限界や集客に悩む美術館の現状を鑑みるに、大いに興味深い試みとして映る。(昨年、「長澤英俊」展において、埼玉県立近代美術館と川越市立美術館と遠山記念館が同時開催を行っていたのも記憶に新しい。)
    それにしても両館が、美術館を「出会い」の場として立ち上げようとする目論見から垣間見えるものは一体何だろうか。それは、美術館という制度そのものに対する問題-つまり「美術館は何を展示するのか」ではなく、「美術館では何ができるのか」-が、人々から問われている(それも極めて無関心に!)と感じる学芸員の危機感ではないだろうか。担当学芸員の工藤健志氏は、展覧会カタログにおいて、次のように述べている。

「頭を柔らかくして、その[展覧会の]形式を少しだけほぐしてみること。その「常識」や「制約」からできるだけ逃れてみること。そこから展覧会とは何かということが逆説的に浮かび上がり、形式的そのものの可能性も広がるのではないかと考えたのだ。」 ※1

    「ラブラブショー」が持つ展覧会という形式そのものを考える、という自己言及的な性格は、2008年に茨城県近代美術館で開催された「明治の洋画-解読から観賞へ-」展(2008年8月2日-9月23日)や、2009年に水戸芸術館現代美術ギャラリーにて開催された「現代美術も楽勝よ。」展(2009年8月29日-10月12日)の系譜に連なるものと言えるだろう。前者は、近代日本における作品鑑賞の作法の変遷を明治期の絵画に描かれた表象から読み込み、美術作品を「見る」行為と、作品を見る場所として制度化されている美術館の在り方を再考するものであり、後者は展覧会の構成に展覧会の設営中に勃発した架空の事件を、観客が実際の展示物やこの展覧会のために製作された映画を見ながら、謎を解くというエッセンスを加えた。それにより同展覧会は、観客を疑似的に美術館の内部へと巻き込んでいくような展示構成となっていた。前者と後者は学術的なものとイベント的なものと、大きく性格を異にするものだが、美術館や展覧会という制度自体に問題意識を持つという点で共通する。

    「美術館では何ができるのか」「そもそも『美術』とは何なのか」といった人々の無関心な問いに対して、「昨今の現代美術の動向は云々・・・」など釈迦に説法するかの如きもの。私たちは、中央省庁・地方公共団体ともに逼迫した財政状況の中で「ゲンダイビジュツ」などという得体の知れないものや、「ビジュツ」や「あーと」などという何の飯の足しになるか分からないようなものに、私たちの血税を投入することが許せないのだ。さてさて、手薬煉引いて「仕分け」が待っている。一刻の猶予もありはしない。ちょっとでも不祥事や集客不足の兆候があれば、すぐさまそれは、「仕分け」の口実にされてしまう。近年の展覧会に見られるこの自己言及的な性格は、「美術館では何ができるのか」、「美術館とは何のために存在するのか」、ということが真摯に問われている昨今の状況を反映していると言えるのではないだろうか。
    そのような疑義に対して「ケンビ」と「ゲンビ」が協力して出した解答は、美術館「が」何を見せるか、ではなく、あなた「が」そこで何をするか、へのシフトである。つまりそれは、西欧の最新の文物、あるいは前衛芸術をありがたがって、ともすれば受動的に受け取る場所ではなく、人や作品と出会って恋をする場所、つまり人々が積極的に関わっていけるような場所として美術館を変貌させていくひとつの試みなのだろう。無論、青森県立美術館や十和田市現代美術館が導き出した「解」が唯一の正解ではないし、それが功を奏すのかも分からない。それは時代や観客のニーズとともに変わってしかるべきだし、個々の美術館が持つ特有の性格や事情によって千差万別であって構わない。しかし、両館の出した「解」が美術館や展覧会の成り立ちから大きく逸脱するものではないどころか、むしろその王道であることは明らかだろう。何故ならば展覧会の起源が「驚異の部屋」や「見世物」とも言われているように、それはまさに見知らぬものや文化と出会い、時には魅了され「恋に落ちる」場所であり、他者を知るということは、そのまま自己と「出会う」ことに他ならないからだ。「ラブラブショー」は、暗い状況が続く美術業界の中で、そのことをあくまでも明るく鮮やかに示唆してくれたように思える。

脚注
※1
『ラブラブショー』展覧会カタログ、ラブラブショー実行委員会、2009年、006頁。[ ]内は筆者が補った。

参照展覧会

展覧会名: ラブラブショー
会期: 2009年12月12日~2010年2月14日
会場: 青森県立美術館

最終更新 2010年 7月 04日
 

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