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鷹野隆大:男の乗り方
レビュー
執筆: 田中 みずき   
公開日: 2009年 12月 16日

fig. 1  ≪うつ伏せの下半身、 めくれたGパンからお尻が少し見えている≫2007年 タイプCプリント|シリーズ「男の乗り方」より|Copyright © Ryudai Takano|Courtesy: Yumiko Chiba Associates/Zeit-Foto Salon

fig. 2  ≪仰向けの状態で、足を絡ませている≫2006年 Cプリント|シリーズ「男の乗り方」より|Copyright © Courtesy: Yumiko Chiba Associates/Zeit-Foto Salon

男性の裸体像を撮ってきた写真家・鷹野隆大の「男の乗り方」展が東京都渋谷区上原のGALLERY at lammfrommで開かれた。鷹野は、西洋絵画で描かれてきたヌードの女性像と同じポーズで男性を撮影した作品や、男性器を近距離から写した写真で、セクシャリティを意識させたり、既成の「常識的」男女観に異議申し立てたりする作品を生んできた。今回の展示では、鷹野の写真集『男の乗り方』の発売と同時期に開かれ、写真家自身が選んだ2003年から2009年までの作品が出されている。過去の作品が並びながらも、作品の選びかたからは鷹野の写真への新しい向き合い方が窺えた。

会場には、タイトルにもなった《男の乗り方》シリーズ7点のほかに、《in my room》のシリーズ4点と《untitled》とされた作品2点が並んだ。裸体や、部分的に衣服をまとった男性が写されているが、どれも眼の下か体の背後からしか写されず、胴体と脚上部位までが画面内に入っている。大半の作品に共通するのは、やや離れたところから撮影しているような、対象との距離感だ。

全作品、背景は、白である。おおむね、白い壁と白いシーツ。被写体の中心である男はシーツに寝そべっている。性的なイメージを作りだすためかもしれないが、そこには個人(プライベート)の寝室のような空気はない。シーツは寝具としての柔らかさも感じさせない。実際、シーツがまくれてフローリングの床が少しだけ見えている写真もある。自然に皺がよっていて、潔癖さや過剰な無機質さは廃されている。鑑賞者の視線は、自然に体を横たえる被写体の男性に促される。19世紀のフランスの画家エドゥアール・マネによる《オランピア》(1863年、オルセー美術館蔵)のように横を向いて足をそろえた下半身を撮った作品や、上半身だけ起して、黒い靴下を履いている両足をだらりと開いた作品などなど。しかし、前述の通り、どの写真も後姿か眼の下からしか写っておらず、被写体は感情を持たない「物」のようだ。皺一つ無く人生の蓄積を感じさせ無い皮膚が、「物」のような印象をさらに強くする。

顔が無いということは、名前が無いということに、よく似ている。実際、この展覧会だけを観ている限り、よほど眼を凝らさなければ、被写体が同一人物なのか複数いるのかすら、わからないだろう。男が身につけている着古したジーンズやくたびれた黒い靴下から、 写された個人がどんな人物か想像力を刺激されるが、同時に顔が無いというただ一点によって、結局そのイメージの像は結べない。

2006年に東京・京橋のZEIT-FOTO SALONで開かれた同名の「男の乗り方」展では、見上げるような大画面の写真が展示されていた。これも総て男性の裸体像だが、ほぼ実物大。全身が映り、絵画のように意識的なポーズを取っていた。顔はカメラの方を向け、表情豊かな視線で鑑賞者を観ていた。不安そうな表情あり、愉快そうな表情あり。感情を持った生身の人間が捉えられていた。しかし今回は、同じ《男の乗り方》シリーズでも、正方形に近い家庭用アルバム程の、両手に収まるサイズの写真である。こっそりと個人が隠し持つ、蒐集品のようだ。

顔を失い、記号のように見える男性像。同時に、ディティールから個性について想像を促す身体。「男」というものを撮り続けるということは、個人の顔や名前ではない何かを、切り取ってコレクトすることなのかも知れない。今回の展覧会では、一巡した後、男性を撮影し続けてきた鷹野の経験そのものに意識が向けられる。男性を写す一方で風景写真を撮影し続け、近年では定点観測の作品も制作している鷹野の活動が、人物を撮影した作品にも重なっていく。「男」あるいは「人間」を捉える考え方の深化が窺えるようだ。

最終更新 2015年 10月 20日
 

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