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未完の横尾忠則 - 君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 12月 04日

fig. 1 ≪滝のインスタレーション≫1999年/2009年|ミクストメディア|画像提供:金沢21世紀美術館

fig. 2 「未完の横尾忠則-君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの」(金沢21世紀美術館)|画像提供:金沢21世紀美術館

fig. 3 ≪終わりの美学≫1966年|アクリル/カンヴァス52.5×65.5cm|田中一光デザイン室 ©Tadanori Yokoo|画像提供:金沢21世紀美術館

fig. 4 ≪彼女のお尻は熱い≫2007年|アクリル/ カンヴァス53.0×65.2cm|作家蔵|©Tadanori Yokoo|画像提供:金沢21世紀美術館

展覧会も終盤に差しかかったころ、小さな展示室に靴を脱いで足を踏み入れた[fig. 1]。外には入る前からその内部からの得体のしれない煌めきが発せられていて、入ったら入ったでその光源の中に自らを置くことの、言い難い気味の悪さを感じないではいられなかった。足元全面に敷かれている柔らかめの、歩を進めるとぐにゃりとした感触が足元に残る鏡は、壁面そして天井に貼り付けられている夥しい数の滝の絵葉書を写し出し、あらぬかたちに変形させ、鑑賞者の眼差しの所在を惑わせて止まない。私はここに来てようやく、それまで展示室ごとの出入口の上部などに掛けられていた滝の絵や工芸品らしきものが、このためのいわば前置きだったと知り、流れ落ちる無数の滝の音が、展示室全体を通して響き合っているような想像を巡らせた。

金沢21世紀美術館で開催された「未完の横尾忠則-君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの」は、大小様々なサイズの展示室からなる同美術館の構造を利用しコンパクトにまとめられた横尾忠則の展覧会だ。横尾の展覧会としては2008年に世田谷美術館と兵庫県立美術館で開催された「冒険王・横尾忠則 初公開!60年代未公開作品から最新絵画まで」が記憶に新しいが、同展が横尾の「画家宣言」(1981年)以前のデザインの仕事にもスポットを当て、それらの原画を積極的に展示していたのとは異なり、金沢21世紀美術館での展覧会は絵画をベースにしたものになっている。最初の展示室には、公開制作された「Y字路」シリーズがその制作の模様の映像とともに展示されており、2001年同シリーズ開始当初と比べその奔放性を増し、即興ならではの切れ味の鋭さを有する作品に私はとりわけ圧倒された[fig. 2]。

展示上興味深かったのは、たとえば1966年制作≪終わりの美学≫(アクリル/カンヴァス、52.5×65.5cm、田中一光デザイン室)[fig. 3]の全体的なイメージを踏襲し一部変形した、2006年の≪出発、進行≫(アクリル/カンヴァス、45.5×60.6cm、個人蔵)や2007年の≪彼女のお尻は熱い≫(アクリル/ カンヴァス、53.0×65.2cm、作家蔵)[fig. 4]を同時に展示し、横尾の作品が、時系列からあたかも自由であるように思わせる展示を行っていた点だろう。無論「画家宣言」をしてから30年近くが経つ横尾の作品は、当初から比べれば作品のヴァリエーションも増え、その点では「進化」していると言うこともできる。だが、過去の自作を「引用」し、今回も出品されていたようにルソーの作品から着想を得て、類似するタッチで作品の「その後」を批評的に描いてしまう横尾は、まさしく「君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの」のごとく縦横無尽に多様なイメージを結びつけて自身の作品を制作しているように見える。自らの制作物ではない滝の絵葉書によるインスタレーションや、横尾の作品を一般人参加者が模写する「横尾工房」の試みとその作品展示が好例である。

加えて重要なことは、そのような「引用」の蓄積こそが横尾のオリジナリティを作り出しているという点にあり、それこそが本展の企画者の定めたテーマの着眼点であるということだ。現代では「オリジナリティ」という言葉の氾濫のもと、「模写」や「引用」という行為はかつてと比較すると積極的な評価がされていないように感じるが、近代以前の画家にとってそれらの行為は制作上欠くべからざる行為だった。先人の作品を「真似る」ことによって技術を修練し、さらなる高みへ到達した作品を見ると、過去への尊敬の念もそこにこめられていることを実感する。前提となるジャンルが多様化し、とかく先端であることが求められている昨今の作品からは「歴史」の接続を認めることが困難な状況だが、だから今の芸術はほとんどが薄っぺらく、その「薄っぺらさ」こそが「現代」であるという不毛な方向に向かっていく。

だから一言付け加えないではいられないのは、横尾は今回あてがわれたような「君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの」という態度で「自由」な制作をしているように見えるが、その文言は芸術家であるならば決して横尾だけの専売特許ではなく、むしろかつての芸術家の正統なあり方を言い表しているということだ。そのようなキャッチフレーズが生まれてしまうことはつまり、今の芸術が往々にして過去と断絶していることの証左でしかない。くすっと笑わずには見られないものも多くある横尾の作品に、けれどもその軽みとともに重みもまた混在しているとしたら、それは「私」という存在を見据えつつ、「オリジナリティ」や「個性」という言葉に犯されない、外に開かれた態度が横尾にあるからにほかならない。本展は、そのことによる芸術の多大な可能性を今一度問うているのではあるまいか。

最終更新 2015年 10月 24日
 

編集部ノート    執筆:小金沢智


横尾忠則の芸術の本質を「未完」とし、たとえば過去作とそれを元にした近作を合わせて展示することや、ルソーの作品を引用した作品の展示をその元になっている作品の画像(作品が展示されているわけではない)とともにするなど、様々なものからインスピレーションを受け制作する横尾の言わば不安定で動的な点に注目して作品を見せる展覧会。「Y字路」のシリーズでは作品の横に制作風景の映像を流し、展示室毎に滝の絵画やオブジェをさりげなく展示するなど、展示にも工夫が凝らされている。比較的小さな展示室がいくつか組み合わせられているためコンパクトな印象を受けるが、その内容は濃密だ。 なお金沢21世紀美術館から徒歩10分ほどの距離にある石川県立美術館では、「石川県立美術館開設50周年記念
 久隅守景展 −加賀で開花した江戸の画家-」(2009年9月26日~2009年10月25日)を開催中だ。過去の画家が当たり前のように中国や日本の画家の作品の引用を行い、しかしそのことによってこそ自身の画業を深めていることの良質な結果がその展覧会には示されている。「現代美術」ではないからと言って見逃すにはあまりに惜しい展覧会であり、時期が重なっているようであれば本展と合わせて強くお薦めしたい。どちらも過去の作品の優れた引用と解釈から独自の作品に至っているという点で共通している。


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