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足立喜一朗:シャングリラ2
レビュー
執筆: 桝田 倫広   
公開日: 2009年 11月 11日

fig. 1 足立喜一朗個展「シャングリラ2」展示風景|撮影:山中慎太郎|画像提供:YUKA TSURUNO

fig. 2 ≪三塔鞠≫2009年|撮影:山中慎太郎|画像提供:YUKA TSURUNO

fig. 3 ≪OOM (Out Of Mercy)≫2009年|撮影:山中慎太郎|画像提供:YUKA TSURUNO

fig. 4 ≪hebiichigo≫2009年|撮影:山中慎太郎|画像提供:YUKA TSURUNO

足立喜一朗が展覧会に際して書いたステートメントの主題は、自然と人間との共生という幻想への疑義である。それは、例えば自然公園の異質さ、あるいは愛玩動物という存在の不気味さ、はたまたエコの胡散臭さなど、所詮人間の管理できる範囲内において、自然を自然のままにしているにもかかわらず、そのことを自然との共生、あるいは自然保護と捉える欺瞞に対するものだ。去勢された自然の姿は、果たして生のままの自然と呼べるのだろうか。

「Wedge」の2009年11月号は、鳩山首相が表明したCO2「25%削減」についての特集を組んでいる。削減に伴うコストや経済的(悪)影響が特集されているわけだけれども、ここで決定的に抜け落ちているのは、エコの倫理的意味だとか、そもそも何故エコが必要なのかという観点だ。無論、「Wedge」は基本的に経済誌(近年は総合誌を標榜)なので、エコの本質的問題などさておいて、その経済的影響を問題視することは当然だ。しかし、もしCO2を抑えない限りいずれ人類の生存にとって厳しい未来が到来すると仮定するならば、経済事情、政治的駆け引きなど後回しにして、CO2なんていくらでも排出しない方がよい。それができないのは結局、我々の生活が事実上、自然を扼殺することで成り立っているからで、自然を生かさず殺さずに我々の管理下にとどめ置くこと、それ以外に我々は我々の生活を維持し、同時に自然を扼殺しているという罪悪感から逃れる術はない。足立喜一朗のステートメントは、こうした我々ののっぴきならない状況を端的に表していた。

足立喜一朗の新作≪三塔鞠≫[fig. 2]では、地球を模したと思しき緑に囲まれた球体が吊られている。内部は空洞で、表面には大きな穴が三つ穿たれているのだけれども、三つの鳥籠がその穴を塞いでいる。この「地球」の中では本物の生きた鳥が三匹、飼われている。鳥は自由にこの箱庭的「地球」の中を自由に行き来することができる。けれども「地球」の内部は程よく狭く、そのため鳥は羽ばたくことも、また当然鳥籠が邪魔をして「地球」の外へと飛び立つこともできない。鳥はこの狭い箱庭的「地球」の中で生きる限り、さも自然の中で生きているかのように見える。またそこには、人間の手によって作られた餌場も存在し、彼らは安穏と生きていられる。しかし彼らの生息区域は「地球」に縛られており、全く自由ではない。

≪OOM (Out Of Mercy)≫[fig. 3]は、名前もさることながら「風の谷のナウシカ」に出てくるオームを思い起こさせる芋虫形の作品だ。中にモーターが内蔵してあり、のろのろと徘徊する。強化プラスチックで作った甲羅の上に草木が生えている。しかし、これもやはり鎖に繋がれており、一定の円環を描く以上の自由はない。

自然とそれを制御する秩序の支配との関係性は、足立喜一朗の絵画作品[fig. 4]にも表れる。ここではドリッピングでできた絵具の滲みを線で囲むという作業を通じて、無作為にできた染みからある図面が浮かび上がる。自然と秩序との緊張感を孕んだこの絵画群は、先に述べてきた立体作品と同様の傾向を持つと言えるだろう。

それにしても彼のステートメントを読んだ後、改めて作品を眺めれば、どうにもよくできた中学生の夏休み自由研究課題に付き合っているようにも感じられる。賢くて卒がない。反面、妙味が足りないように思えてしまうのだ。

逡巡の果てにごく瑣末な「自然」に注視してみよう。それはこの会場に舞う小さな羽虫たちのことだ。ギャラリーや美術館にとって最大の敵は、湿度そして虫である。何故ならばそれらは、作品を傷つけ破壊する要因となるからだ。いくら制御された自然の隠喩とは言え、≪OOM (Out Of Mercy)≫の道行く軌跡にばらまかれた朽ちた草木、あるいは≪三塔鞠≫が生み出す鳥の糞は不衛生であり、そこから派生したであろう羽虫たちは、動くオームの後ろをついて回ったり、絵から絵に飛び移ったりしている。彼らは、この作品群を作品として成立させる秩序たるギャラリーのホワイトキューブを概念的ではなく、物理的に破壊しうる小さな乱暴者なのだ。

秩序に支配された自然ですら、時として秩序を侵犯し破壊しうるバグとなりうる。確かにギャラリーの物理的条件の内破など、多くの人にとって瑣末なことかもしれない。しかし、ギャラリーをある制作物を芸術作品として生産する場所と捉えるならば、足立喜一朗の作品群は自己を生み出し、そして管理する場所を破壊しうる力を保持しているという点で極めて危険な性格を持つ。我々は彼の作品に見出せる管理に対するささやかな抵抗を、希望と捉えることはできないだろうか。

最終更新 2015年 11月 02日
 

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