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Stitch by Stitch:針と糸で描くわたし
レビュー
執筆: 田中 みずき   
公開日: 2009年 9月 24日

fig. 2 伊藤存≪南京ダック≫2008年|布に刺繍|Photo: KEI OKANO|画像提供:東京都庭園美術館

fig. 1 秋山さやか≪あるく -私の生活基本形 白金 2009年6月10日・7月1日~16日≫(写真は部分)2009年|素材参照※2|Photograph by Hideto NAGATSUKA|画像提供:東京都庭園美術館

    本展覧会の副題は、「針と糸で描くわたし」である。「わたし」という言葉が曲者だ。女性が一人称として使うことの多い言葉である。漢字の「私」でなくひらがなが持つやわらかさが、その印象を強くする。
    刺繍というと、女性が細やかに針を動かす姿を思い浮かべる人が多いだろう。西洋絵画では古来から、家の中で従順そうな女性が刺繍をする姿が描かれてきた。刺繍は、女性や高貴な人に遣える者が誰かのために行う、単純作業だった。ところが昨今の現代美術においては刺繍が表現方法の一つとして確立してきている。例えば美術家の伊藤存などが美術館での展覧会やアートフェスに出品しているのが好例だろう。一見、それは刺繍が家制度という狭い枠での取るに足らない営みから、社会的な意味を持つ「芸術」へと解放されたように見える。「わたし」は家の中で誰かのために刺繍をするのではなく、「わたし」の表現のために刺繍をするのだ、と。しかし、刺繍は本当に、「わたし」に解放されただろうか。副題の「わたし」が指すものは縫う題材とも描く主体ともとれるが、問いは作者の自意識と誰のために作られた作品なのかという点に収斂していく。

    本展覧会では、男女の作家8人が出品している。作品は副題の通り、私的なものを題材にしたものが多い。秋山さやかは自分の歩いた道を地図の上に刺繍し[fig. 1]、伊藤存はスケッチのように一見では脈絡のないものを縫いこむ[fig. 2]。清川あさみは女性ならではの視点から同性が持つ体へのコンプレックスを刺繍し[fig. 3]、竹村京は≪A.市とW.市で上がって行く知っている人びとと知らない人びと≫[fig. 4]と題し、氏が街で見た人の影を糸で留める。手塚愛子は自分の好きな絵画などを見上げるような大布に散りばめている[fig. 5]。会場を埋め尽くす、「わたし」「わたし」「わたし」。

fig. 4 竹村京≪A.市とW.市で上がって行く知っている人びとと知らない人びと≫2007年|日本製絹糸、イタリア製合成繊維、白黒コピー、カラーコピー|高橋コレクション|Courtesy of Taka Ishii Gallery

fig. 3 清川あさみ≪Complex-voice≫2007年|写真に刺繍|Photo: タケミアートフォトス|画像提供:東京都庭園美術館

    清川が作家個人の体験に留まらない「女性」というテーマを示すほかは、作家が排他的に自己を誇示しているように見える。家という隔離された社会はそれでも社会だったが、本展で刺繍がされる場は家ですらなく、狭い独りの世界だ。鑑賞者は部外者として外に締め出され、作家だけが建物の中央でドアを締め切っている印象だ。フランツ・カフカが手紙にこう書いたように-「自分の家を持つこと、世界に対して戸をぴしゃりと閉めること、それも自分の部屋や、アパルトマンの戸ではなく、じかに外の世界に対して自分の家の戸を閉めるということは全く特殊な感情なのだ。」※1 誰かに遣える舞台ではなくなった家に独りひきこもるように、世界に対して閉じられた眼がそこにある。何のために「わたし」を描くのか。誰のために「わたし」が描くのか。他者との関係性が絶たれた場で、作家と美術館の示す「わたし」は閉じ込められていく印象がある。
    ここでもう一度見直したくなるのが、ボディや黒マントに過度な装飾刺繍をした村山留里子の作品が放つ抑圧された感覚と[fig. 6]、ひたすら細かい線を繰り返し縫い続けた吉本篤史(nui project)の作品だ[fig. 7 ]。作家個人の自己を出そうとするのではなく、鑑賞者によって縫うことの意味や個人に帰結しない「縫い手」の存在が意識される作品になっている。

fig. 6 村山留里子≪マント≫(写真は部分)2009年|ベルベット、化繊、プラスチック、その他|フォーエバー現代美術館蔵|Photo: 木奥惠三|Courtesy of YAMAMOTO GENDAI

fig. 5 手塚愛子≪落ちる絵≫2009年|布に刺繍|撮影:木奥惠三|画像提供:東京都庭園美術館

    そして何より、奥村綱雄による写真とインスタレーションの作品≪夜警の刺繍≫[fig. 8]である。写真には、車越しの薄暗い地下駐車場片隅で光を放つ警備員室が写されている。中には四角に張った肩をマニュッシュな紺の制服に包んだ眼鏡の男性。作家本人である。彼が凝視するのは、刺繍布だ。隠し撮りのような構図は、刺繍が女性のものとされる概念から外れた行為をする身を隠すように見え、また完璧な構図で捉えられ観られる対象となったかつての絵画の中の女性像へ向ける眼差しと真っ向から反対の視点をも鑑賞者に提供している。彼は、長い間に男性が占領してきた文字が並ぶ本を包むためのカバーを刺繍し、自分のための生活用品を用意する。その表面は糸の細かな縫い目で機械的に覆い尽くされ、作家個人の自己表出ではなく、「縫う」という行為に注目させるモチーフを選んでいる。彼は己の姿を写真に写しているが、写っているのはもはや作家自身にとっての「わたし」という個人的な存在ではなく、「男」という姿を客観的にとらえたものだ。縫った物ではなく、縫うという行為に目を向けさせ、逆説的にそれまでの刺繍の歴史を意識させている。

    多様な刺繍の在り方が展示される展示場で、刺繍は一歩、外の世界へ出たのかもしれない。

脚注

fig. 8 奥村綱雄≪夜警の刺繍 制作風景≫2001年|制作風景のドキュメンタリー写真|画像提供:東京都庭園美術館

fig. 7 吉本篤史(nui project)≪無題≫2005年|オーガンジーに刺繍|画像提供:東京都庭園美術館

※1
ガストン・バシュラール著、饗庭孝男訳『大地と休息の夢想』(思潮社、1970年)p118より引用。カフカの手紙では、室内への視点だけにとどまらず、以下のように続くことを注記しておきたい。
「それに又、自分の住いから出て、沈黙している街をおおう雪をただちに踏むことも--」
なお、マックス・ブロー著、辻瑆・齋尾鴻一郎訳『フランツ・カフカ』(みすず書房、1955年)p194では同じ手紙の箇所が以下のように訳されている。
「そこでの生活-、ちゃんと自分の家があつて、部屋の扉ではなく表の扉を締め切つて、世人の目につかずに暮すというのは、なんとも味のあるものですね。自分の住まいを一歩でさえすれば静かな街路の雪に足を印することができるというのもまた格別です。」

小説執筆のため静かな場所を求めて決めた家についての記述である。恋人Fとの結婚のための住居であったが、結局カフカが結婚することはなかった。
※2
ししゅう糸、もめん糸、ポリエステル糸、しつけ糸、リネン糸、リボン、ボタン、ヘアゴム、針金、ひも、シール、ピンバッジ、しおり、アクセサリー、はぎれ布、てぬぐい、カーテンのかざり、携帯電話のデコレーション、眼鏡ストラップ、切符、メモの切れはし、割引チケット、紙袋、ビニール袋、模型キット、ストロー、ペットボトルのラベル、あらゆる食べ物の包み紙、美術館のワークショップ素材のあまり、などなど…白金でみつけた素材・ポリエステル布に昇華プリント
最終更新 2010年 7月 05日
 

編集部ノート    執筆:小金沢智


「刺繍」を取り扱う「現代美術」の展覧会ということで試み自体は新しいが、しかし作品自体が訴えかけるものが希薄でただジャンル横断的な愉悦にのみ留まっている。唯一瞠目したのが奥村綱雄による≪夜警の刺繍≫だ。作家が夜警の勤務中に作り出した刺繍作品とその場面を写した写真に加え、その下に勤務中の制服や手帖、時計、さしかけの刺繍など現場の様相を伺わせるものがまとめてある。刺繍作品の大きさは文庫本を開いた程度と大きくないが、「stitch」(針を運ぶこと)の執拗な反復作業によって作られた布の表面は見るものを圧倒させるに十分だった。「現代美術」と呼ばれようが「刺繍」と呼ばれようが、優れた作品はそのような他者からの名付けを越境して鑑賞者の眼を見開かせるという好例である。


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