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直島銭湯「I♥湯」
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 9月 16日

大竹伸朗 直島銭湯「I❤湯」2009年|撮影:渡邉修|画像提供:財団法人直島福武美術館財団

大竹伸朗 直島銭湯「I❤湯」2009年|撮影:渡邉修|画像提供:財団法人直島福武美術館財団

大竹伸朗 直島銭湯「I❤ 湯」2009年|撮影:渡邉修|画像提供:財団法人直島福武美術館財団

    銭湯や温泉の大浴場の、大きい浴槽に足を伸ばして入ることができる環境だけでも十分得難いものなのに、さらなる付加価値を求めてしまう自分はなんて欲深いのか。狭いが家に風呂があり、日常的に銭湯を訪れることがまったくない私は、しかし大竹伸朗が作り、grafが設計・デザインに協力し、加えて東信もその場での植栽に関わっているという理由で、東京から直島へ銭湯に入りに行ってしまった。2009年7月26日にオープンした直島銭湯「I♥湯」(アイラヴユ)、口に出さずとも脱力してしまうネーミングは入る前から客の心をゆるませる愛らしさがある。

    直島宮ノ浦港から徒歩二分の立地にあるその銭湯の外観は、まったく異彩を放っている。さながら南国の雰囲気を醸し出すヤシの木が二本植わる正面玄関上には女体のシルエットの看板が取り付けられ、そこからにゅっと伸びるのは真っ赤な「ゆ」のネオンサイン。白が基調の壁面にはインドネシア製のコンクリートタイルやテラコッタが色鮮やかに配置されているが、外観は玄関の扉がそうであるように濃いグリーンがとりわけ目立つ。もっともグリーンの印象が強いのは玄関からその周辺に至るまで所狭しと置かれている鉢植えによるのだろうが、なんにせよこの緑こそ、バックに回れば船のコックッピットまでもが取り付けられているこの異形の銭湯をなぜか親しみ深いものにしている要因に違いない。直島は四方を海に囲まれた緑の多い小島であり、だから銭湯の植物が島内から集められたものではないにしても、それらが織りなすイメージと島のグリーンが重なり合う。

    さて、券売機で入浴券を購入し番台に座る女性に券を渡し暖簾をくぐれば、いよいよ脱衣所である。ロッカーの上に掛けられている大竹によるコラージュ作品や、洗面所を賑やかにしている大竹による絵付けタイル、あるいは海女の映像が延々と流れるモニタが組み込まれてるベンチなど、脱衣所だけでも興味は尽きないが、それよりもまず服を脱ぎ裸になるのが筋だろう。そしてたとえはやる気持ちがあっても、浴場のドアを開けたなら浴槽にからだを浸ける前にからだをしっかり洗わなければならない。いくら大竹が作ったといってもこの銭湯は島民のことも考えて作られた公共施設であり、その場での作法を守ることのできないものに入浴する資格はない。

    と、つい声を荒げてしまうのは、とかく大竹なり、東の仕事を〈見よう〉として入浴すると、事の本質が隠れてしまうのではないか、と入浴しながら思ったからだ。私は近眼のため日常生活では眼鏡が必須なのだが、自宅の風呂に入るときに眼鏡をかけたまま入るようなことはしない。理由は言うまでもなくする必要がないからである。けれども今回、内装を〈見たい〉という強い欲望があり眼鏡を外さず入ってしまい、もちろん内装はよく観察できたものの、どうも風呂に入っているという気がしなかった。正面の巨大なタイル絵も、男湯と女湯の間の壁に置かれた小象のサダコも、天井のトップライトに豪快に描かれたペインティングも、浴槽の下でゆらめく春画やピンナップなどのコラージュも、浴場奥に作られた温室にずらりと並ぶ植物も、もちろん眼鏡をかけていればよく見える。しかし、そこかしこにあるものがよく見えるという事が、風呂に入る事の愉楽と必ずしもイコールで結びつくのかというと、そうではないのではないか。

    そう思い、途中から眼鏡を外し、ぼんやりとした視界のまま天井を見上げただ風呂に浸かった。そうすると、見上げた天井の極彩色のストロークはうねり一体と化し、伸ばした足下ではなんだか分からないものものがユラメくお湯の中でゴチャゴチャに混ざっていた。からだから力が抜けていき、皮膚はふやけていき、頭も次第にボーッとしていく。時間の経過とともにからだが湯船と、空間全体と一体化するような感覚が訪れる。それは結局、五感をゆるませることで体得される感覚で、その一因として大竹や東の仕事があるのは言うまでもないが、それだけに目がいってしまうとからだが凝ってしまう。逆説的な言い方になるが、この銭湯は大竹伸朗が作ったものではあるものの、できてしまった以上、大竹の芸術作品というよりは、みんなのものである。理由はそれが銭湯だからという理由に尽きるのだが、つまり「I♥湯」と直島に点在する多くのアートワークは存在意義が異なっていて、これをたとえば「家プロジェクト」の体験型作品と一緒にしてはいけない。銭湯には体験もなにもなく、ただ入るしかない。

    オープンしたての銭湯は、外見は雑然としているものの内観はピカピカしていて、しかしそれは月日が経つごとに汚れたり壊れたりしていくだろう。植物の中には思いもよらぬ成長をとげるものがいるかもしれないし、直島の気候に合わず枯れていくものももしかしたらあるかもしれない。だが、そのような人の手や自然による変貌のプロセスがなによりこの銭湯には合っていると私は思う。50年後、あるいは100年後、たとえ誰が作ったかという事が忘れ去られても、銭湯さえ残っていれば、人は風呂に入りに来るだろうか。それとも、銭湯自体が前時代の遺物と化し、「I♥湯」もまた、廃墟化するだろうか。大竹が作ったのは、そのような、生きている場所にほかならない。

最終更新 2011年 11月 14日
 

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