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松本陽子/野口里佳:光
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 9月 07日

fig. 1 松本陽子≪光は荒野のなかに輝いているⅠ≫1992年|アクリリック/カンヴァス|182×182cm|写真:山本糾|ヒノギャラリー協力

fig. 2 野口里佳≪太陽 #23≫2008年|Cプリント|40.3×60.3cm|ギャラリー小柳協力

    評価に困る展覧会である。松本陽子の絵画も、野口里佳の写真も、それぞれの作品が半ば回顧的に展示されており非常に充実している。しかし、作品としての充実度と展覧会としてのそれはまったく別だ。一つの展覧会としての内容はきわめて空疎である。

    というのはまず、本展が「光」をタイトルに冠したものでありながら、必ずしも「光」をテーマにした作品だけを選んでいるわけではないという点にある。なるほど、確かにそれぞれの作品は、「光」を感じさせるものが多く見受けられる。ピンクを基調にした色彩が画面内に靄のように立ち上がる松本のアクリル・ペインティングのシリーズ[fig. 1]は「光」を思わせるに十分だし、野口の作品はピンホールカメラを使用した≪太陽≫(2005年—2008年)[fig. 2]に端的に表れているように、「光」の調子を写し出すことが重要な目的になっている。ただしそれらはあくまで全体の構成要素の一つでしかなく、そもそも作品から「光」というテーマを導き出せる作家を選んでいるに過ぎないのだ。

   展覧会担当の南雄介学芸課長の「序文「光 松本陽子/野口里佳展」について」はなぜその二人の作家を選出したのかという説明責任を十分に果たすものではなく、繰り返してしまうが「光」をタイトルに冠したものでありながら、同序文には「展覧会の最終的な目的は、「光」という言葉や概念に収斂していくものではな」く、「それぞれの芸術自体を紹介することにつとめている」と書かれている。※1 すなわちこの文章から見て取れるのは、設定されている「光」というテーマ(?)が方便でしかないという開き直りである。

    だから一つの展覧会でありながら、以下に記すような不可解な構成をとっている。展覧会案内にそもそも明記されているように、松本と野口の「個展」をそれぞれ行なうという会場構成が採用されており、二人の作家が一つの展覧会に参加しているにも関わらず、同じ展示室に会することが決してないのだ。展覧会の改札をとおり観客がまず迫られるのは、右の入口と左の入口、どちらから先に見るかという選択にほかならない。つまり左に進めば松本のピンクの絵画のシリーズが、右に進めば野口の≪フジヤマ≫(1997年—)のシリーズがそれぞれの「個展」の幕開けを告げるのである。ひとつの「個展」を見終わると、奥の通路がもうひとつの「個展」と繋がっており、そこを通ればもうひとつの「個展」の出口に到着するという次第である。松本の絵画と野口の写真はそれぞれが侵犯し合うこともなく、完全に区切られている。展覧会案内には二人の「初めての顔合わせ」が価値あるもののように記されているが、展示上二人の作品が「顔合わせ」をすることはないのだ。

    前述したように作品が充実しているにも関わらず私がこの展覧会を評価できないのは、以上に挙げた理由による。簡潔に言えば、この二人を取り上げる必然性を感じられないのである。個展形式なのであれば二人展である必要はなく、個展をすればよいだけの話だ。それでも二人展を開催すると決めたのであれば、なぜ二人の作品を比較展示するような構成をとらなかったのか腑に落ちない。「光」はどこへ消えてしまったのだろう?既にお気づきの方もいるかもしれないが、今回の展覧会の構成は、同館が2008年から開催している「アーティスト・ファイル」展に近似している。学芸員が日頃のフィールドワークで注目する現代作家をピックアップし、スペース毎に区切って展示を行うという個展形式の展覧会のことである。私は「アーティスト・ファイル」がテーマを特に定めないという前提に立っているからこそ担当学芸員の力量が問われる場として同展に非常に期待しているのだが、だからテーマを定めているにも関わらず同じフォーマットを採用してしまう企画者のメンタリティが理解できない。カタログは作家毎に分かれておりそれぞれ購入可能だったが、いっそ入場料も別にとるべきではなかったか。

脚注
※1
南雄介「序文「光 松本陽子/野口里佳展」について」、『光 松本陽子』、p.11、国立新美術館、2009年。なおカタログが別冊であるため、『光 野口里佳』(国立新美術館、2009年)にも同氏の同様の序文が掲載されている。
最終更新 2010年 7月 05日
 

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