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plaplax 《Kage’s Nest》(2001年)
レビュー
執筆: 田中 麻帆   
公開日: 2011年 1月 12日

    インタラクティヴ・アート作品《Kage’s Nest》を制作したplaplax(プラプラックス)は、テクノロジー・アートやデザインの実験を行う4人組のユニット。しばしば影をテーマとした制作をしている※1。例えば《tool’s life》(2001年)では、机の上に置かれたフォークやシャベルなどの日常的な道具に観者が触れると、それらのモノに潜んでいたさまざまな影がうごめきだし、無機質なモノに命が宿る。また《para para sight》(2009年)では、観者が展示物に触れると、はじめは全く別々の世界を象徴していた影絵のような二つの風景の映像が、リンクし始める。ここでは、二つの世界を示しつつ、同時にそれをつなぐものとして影が活用されている。

fig. 1  光の円に入ってゆくと…
《Kage's Nest》 (川崎市市民ミュージアム)展示風景

fig. 2  影から生える木の「かげ」
《Kage's Nest》 (川崎市市民ミュージアム)展示風景

fig. 3  幽体離脱?
《Kage's Nest》 (川崎市市民ミュージアム)展示風景

fig. 4  エイが泳ぐ
《Kage's Nest》 (川崎市市民ミュージアム)展示風景

fig. 5  小さな人影
《Kage's Nest》 (川崎市市民ミュージアム)展示風景

fig. 6  赤い花が咲く
《Kage's Nest》 (川崎市市民ミュージアム)展示風景

    影による表現の多様な可能性に意識的なplaplaxの作品の中でも、《Kage’s Nest》はその規模が、観者が机上で手を使い体験するサイズではなく、全身で体感するサイズになっていることが重要だろう。
     暗い展示空間の床は上からプロジェクターで照らされ、スポットライトのような光の円ができている。観者がそこに踏み込んでゆくとセンサーが反応し、様々な生き物や植物などの影が現れては消える[fig.1]。特筆すべきは観者自身の影も円の中に投影され、「かげ」がこの観者の影を起点として発生することだ※2。円のふちに立って中を覗き込んでいると、投影された自分の影の辺りから、めりめりと音を立てて木が伸びてくる[fig.2]。また少し立ち位置を変えて見ると、自分の影からまるで幽体離脱のように人影が飛び立っていく[fig.3]。足元がぼやけており、そのうめき声やゆらゆらとした動きは幽霊のようだ。《Kage’s Nest》のKageは、あくまでも「かげ」である。「影」であると同時に、何ものかが潜み、隠れる巣としての「陰」だ。
     それだけではなく、本作はこの「影」について、更なるイメージを誘う。光の円を歩くと、突如、ぽちゃんと音を立てて水紋が拡がり、黒と赤の二匹の鯉が横切っていく。光の円が池になる。ウミガメやエイが泳ぎ去れば、ここは海となる[fig.4]。光の円が池や海であるなら、水面にうつる私の影は「鏡像」なのかもしれない[fig.5]。plaplaxが影を「かげ」と呼び、「分身」と言い換えていることからもわかるように、彼らのいう「かげ」とはほかならぬ「私」についてのことである。
     ただし、ここは「空」にもなる。こうもりの群れが円の中心で合流し、巨大な蛾が飛び立つ。これらの空を飛ぶ生き物の黒い影は、逆光のシルエットだろうか。そう考えれば、影は実体あるものの影である。一方、しばらく歩いても何も出てこず、おやっと思い振り返ると、そこにはいつの間にか音もなく、大きな赤い花が咲いていた[fig.6]。静かに開花したきれいな花びらはすでに散り始めており、儚い幻のように薄れ、消えていった。敢えて黒い影のなかに赤いモチーフが示されることで、実体のない映像としての性質が強調されている。学芸員の平井直子氏も解説において述べているように、ここでは実体のある「私」が介入することで影が現実(実体あるものの影)とも虚構(映像美術による虚像)ともつかない幻影を生じさせているようだ※3
     このような様々な影を見ているうち、私たちは子供の頃影に抱いた印象を思い出すのではないだろうか。幼い頃、影は今より身近な存在だったように思う。いつまでもついてくるけれど、いくら追いかけても追いつけない。子供時代は時に影を怖がりつつも、その捉えがたい変幻自在の不思議さに魅了され、影絵をうつしたり影踏みなどしてよく遊んだものだ。影は私をおびやかす未知のものであると同時に、親しい友達であり、鏡に映った私でもあった。
     光の円の真ん中に立つと、突然いたずらっぽい笑い声とともに小さな人影が数人、円のふちに沿って現れ、楽しげに手をばたつかせる。観者は驚かされたような、からかわれたような気分になるだろう。これは「かごめかごめ」の遊びに似ている。「かごめかごめ」は遊びでありながら、集団における「私」の位置や孤独などを感じさせる機能を持つと思われる。「籠の中の鳥」がいつ出会うのかと問い、※4 「夜明けの晩」を歌うその奇妙に矛盾したわらべ歌に似て、本作のかわいらしくも不気味な影達はかつて「おばけ」や「ドッペルゲンガー」といった言葉の響きにおぼえた、ぞっとしながらも心惹かれる感覚を呼び起こす。影とは、つねに「後ろの正面」に、つまり「私」と他者との間にあるものなのではないだろうか。

    《Kage’s Nest》では影が観者に反応して出てくるだけではなく、むしろ観者も様々な影に驚かされ、まどわされる。巨大な蛾が飛べば私たちは蟻のように小さく、遠くを見上げているわけであるし、小さなトカゲが走り去れば、近くを見下ろしていることになる。大きくなったり小さくなったり、見上げたり見下ろしたりと、見る基準のほうも変化する。観者は自分の立っている位置について、つまり「私」が誰で、どこにいるのかを改めて体感するのだ。また時折、サーチライト状の影が光の円のふちから出てくる。本来光であるはずのものが、ここでは影として表わされる。これは、ある一点から見た視野を照らすような固定的な見方に対して、その光の裏側に注目する見方を示唆しているのかもしれない。真相はいつも「藪の中」で、白黒はっきりつくことなど実はそんなにない。影はただの真っ黒な闇ではなく、「私」はいつも闇と光の間の、グレーの階調の中にこそある。以上のような影と観者の関係性は、全身で体感するインタラクティヴ・アート作品であるからこそ表現することが可能になったといえるだろう。
     《Kage’s Nest》は、絵本に出てくるようなかわいらしい「かげ」と楽しく遊べる作品であると同時に、影という存在の意味を再認識できる作品でもある。「かげ」達は息をひそめて、あなたが入ってくるのを待っている。


脚注

※1 plaplaxは2004年に近森基、久納鏡子、筧康明を中心に結成され、現在は小原藍を迎え4名となった。なお、plaplax以前に近森基が単独で制作した、《KAGE》は1997年に文化庁メディア芸術祭デジタルアート部門で大賞を受賞している。この作品における「かげ」は実際のものの影ではない。実際の影はものから分離され、代わりにCGによる「かげ」が作られている。

※2 plaplaxのHPの紹介文でも次のように述べられている。
「光の広場に足を踏み入れた途端、自分の「かげ」から得体のしれない「かげ」達が飛び出しては、周囲の暗闇へと消えていく。ふと辺りを見回してみるけれど、まわりは暗くて何が潜んでいるのか、わからない。一つだけはっきりしているのは、そこに何かがいる、ということ。本体が見えなくても、現れては消える不思議な「かげ」達はそこに何かが存在することを表している。それはまた、あなたから生まれた、あなたの分身でもある」。
http://www.plaplax.com/works/art-work/kages-nest.html

※3 メディアとアート 明晰な幻:from Machine Art to Media Artパネル解説文より。 以下、一部抜粋。
「メディアアートが生み出す映像は、プラトンの比喩に登場する炎によって照らされた実体ある影でも、映画のような虚像でもありません。観者が触ることによって変容し、影でもあり虚像でもある、そのどちらをも合わせ持っています。実体ある「私」が介入することで「私」に反応して姿を変えていく影は、現実とも虚構とも分別しがたい幻影を生じさせ、新たな実在と現象の有り様を創り出したのです」。

※4 「かごめかごめ」の歌詞の意味には諸説あるが、ここでは「出会う」という解釈を採った。


参照展覧会

「メディアとアート 明晰な幻:from Machine Art to Media Art」 展示構成4.幻影の装置
会期: 2010年10月9日(土)―2011年1月16日(日)
会場: 川崎市市民ミュージアム アートギャラリー1,2

最終更新 2015年 10月 20日
 

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