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鈴木理策:WHITE
レビュー
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2009年 7月 06日

fig. 1 ≪雪花≫1977年|出展:『新国誠一 works 1952-1977』国立国際美術館編、思潮社刊(2008年)p.137

「雪の結晶は、天から送られた手紙である」※1

    物理学者・中谷宇吉郎の『雪』(岩波文庫)からの言葉である。鈴木理策はこの言葉をきっかけとして雪をモチーフとした<WHITE>シリーズを始めたという。天から降る雪が地上に降り積もり、地上は雪で覆われ、本来地形が持っている造形の起伏を雪の白さで覆い隠す。私たちに見えるのは雪の白さとわずかに見える木々や山並みや空だけである。

    そんな雪のような現代詩がある。日本におけるコンクリート・ポエトリー(具体詩)の創始者である新国誠一による『雪花』(1970)という詩である。碁盤目状に「雪」の字が配された紙面の中心に「花」の一字が置かれている[fig. 1]。紙面を整然と埋め尽くす「雪」の字の中で「花」の一字が、雪中に咲く一輪の花のように存在を浮かび上がらせるヴィジュアル・ポエトリーだ。ほぼ「雪」の漢字のみによって成立するこの詩から鈴木理策の<WHITE>と近似した抽象的で緊張感に満ちた「風景」が見えてはこないだろうか。

    新国の詩はグリッド状ないし形象的に文字が配されることから、「それは頁なのか、あるいは一枚のプレートなのか」※2見る者の知覚の判断に揺さぶりをかける。あるいは、それは読まれるのか、見られるのかと言い変えてもいいかもしれない。そこでは漢字、文字は固有の意味を持ちながらも頁そのものとしても詩が成立しているからだ。

    鈴木の写真においても私たちは雪の白を見ているのか、印画紙の白を見ているのかわからなくなる。一見すれば何も写っていないかのように見えさえする「白い」写真は、鑑賞者に「写真」を見ることを問うているようだ。そう、鈴木は「雪」ではなく、「白(WHITE)」を撮っている。そこに私たちが見るのは被写体としての「雪」であると同時に、「白」のプリントでもあるのだから。それはまるで、新国の詩の頁のようである。

fig. 2 鈴木理策≪WHITE≫2009年|Type C-print|© Risaku Suzuki / Courtesy of Gallery Koyanagi

    だが、新国の詩が、例え見られる詩だったとしても「詩」であるのと同じように、鈴木の写真もまたプリントが白で埋め尽くされてはいても「写真」であることに変わりはない。その意味で『WHITE』は写真というメディアの限界と可能性の雪原へと踏み出しているだろう。そして、新国の詩が文字の字形や語感に緻密な選択・構成がされているのと同じように、鈴木の写真も緻密な雪の構図と構成により「写真」であることを保ちながら、雪景色を白へと還元しプリントへ定着させている。その極限までミニマルで緊張感のある画面からは、新国の具体詩における詩と頁をめぐる問いを起こさせるだろう。だが、鈴木理策の写真を見る喜びとは、その揺らぎに他ならない。被写体への断片的な距離感の揺らぎ、写真とプリントとの揺らぎ、写真と展示との揺らぎ、この両義性が鈴木理策の写真をスリリングに、時に「雪」のような軟らかさと冷たさで存在させるのだ。そして、今もその「白」は溶けない雪として私の中に降り積もったままだ。

脚注
※1
中谷宇吉郎『雪』岩波文庫、1994年、p.162
※2
建畠暫「矩形の聖域 新国誠一試論」『新国誠一 Works 1952-1977』国立国際美術館編、株式会社思潮社(2008年)p.202
最終更新 2015年 10月 24日
 

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