ガソリン展:千光士誠・忠田愛 |
レビュー |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2009年 5月 25日 |
高層マンションの11階。廊下が外に面しているから、今回のように晴れた日は空の抜けるような青が眩しい。ミニチュアほどのサイズとなった車や人々を左手に見下ろしながら、廊下を進んでゆく。目的は、その一室に位置するGALLERY wks.で開催中のグループ展、「ガソリン展 千光士誠・忠田愛」(2009年5月11日〜23日)である。 ドアを開け、まず視界に入るのが千光士の≪労働者≫(紙・インク・アクリル絵具・ニス、2009年)だ[fig.1]。全九枚からなるその作品は天井から吊り下げられており、瞬間的にはなにが描かれているのか視認できない。それは、おびただしい数の人である[fig.2]。力強い筆致によって描き出されている彼らは一様に向かって左を向き、その方向に走り出しているところだ。作家によれば神戸の町の人々を取材し、走り方も同様にならないよう気を遣っている。注視すれば人体の描写が必ずしも正確ではなくむしろアンバランスであることや、九枚のうち一枚が、千光士が以前制作した作品の裏側に描かれていることに気づくが、作品はそうした思考をまったく失効させてしまう力が働いている。塗布されたニスの照り返しや、向かって右側の、制作が新しい作品に認められる大胆に赤茶けた色彩が効果的に働き、ともすれば機械的と見られるかもしれない人々の描写の反復は、しかしその過剰さと荒々しさによって大きな熱を生み出している。 忠田の作品は、本展のための取材で出会った特定の個人をモデルに描いた≪修理工≫(麻布・陶土・和紙・墨・土製顔料・岩絵具・木炭・獣骨炭、162.1×291.0cm、2009年)[fig.3]と、自画像を元にしているという≪一粒の砂≫(紙・墨・鉛筆・木炭・ガッシュ、2009年)[fig.4]の二点である。紙を継ぎ接ぎすることで構成された≪一粒の砂≫はそのために上部が重力に抗しきれず垂れ下がっており、これまでの忠田の作品が麻布を用いたものが多かったことを考えればその展開は興味深いが、ここではひとまず措きたい。グループ展として見た場合、重要なのは≪修理工≫である。たとえ素材としての紙が脆弱でも、そうであるがゆえの可能性を感じさせる作品だったと一言だけ記しておく。 ≪修理工≫は先に記したように、忠田がガソリン展の出品作品として労働者を書きたいと欲し、出会った自動車修理工をモデルにしている。連続する三枚のパネルの中心に描かれているその人は仕事の最中であろう、一身に前を見つめて離さない。腕が頭ほどに太いことに驚くが、実際にその人がかのような巨体だったのか。おそらく、忠田の対象への深い思い入れがそうさせたと考えた方がよい。いずれ作品のサイズが長大でなくともその存在を強く肯定するような描写を忠田は手に入れると想像するが、今はまだ、たとえ実見していない人間には大袈裟に見えたとしてもその描写で不都合はない。生きていることそれだけの凄みを感じさせる、そういう作品であり、それは忠田がこれまで多く描いてきた老人たちと、根底で大きく隔たるものではない。 「ガソリン展」は、千光士の≪労働者≫と忠田の≪修理工≫が群像と個人という明らかに対照的な作品であるにもかかわらず、むしろそのためか、二人の共通理念が奥底で響き合っているような思いを抱かせる出色のグループ展である[fig.5]。千光士の作品はその熱量に加え群像が同じ方を向いているためにデモやストを思い起こさせ、同一化を押し付けられているような息苦しさを感じることも事実であり、忠田の作品は描写がいくらか劇的に過ぎるが、両者の社会や人間に向けられた暑苦しいほどのまなざしは新鮮である。 作家同士のグループ展といえば、壁面を分割しているだけのものが多い中、今回のグループ展はそれらとはまったく違う。それぞれ作品に対する明確なコンセプトを掲げ、お互いの制作を傍観するのではなく積極的に意見交換をすることで作られたこのグループ展は、そのためにグループ発足当時メンバーであった北村章が展覧会直前の三月に脱退さえしている。個人の特質を活かしつつ、いかにグループとしての展覧会を成立させるか。言うのは簡単だが、実現するのはきわめて難しい。その意味で本展は、今も全国各地で無思慮に開かれているおびただしい数のグループ展に対するきわめて批評的な展覧会とも言える。マーケットや流行では計れない人間的な泥臭さがここにはあり、とても器用とは言えない、不器用であり不細工でもあるこれらの作品は、それゆえに私たちに〈生〉を突きつけてやまない。 参照展覧会 展覧会名: ガソリン展:千光士誠・忠田愛 |
最終更新 2011年 9月 14日 |