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サガキケイタ:Birthday
レビュー
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2008年 12月 10日

fig. 1 "Across the Universe" (2006) , pen and paint on board, H1350xW1820mm|Copyright © 2006 Keita Sagaki / Courtesy of CASHI

    サガキケイタは、昨年2007年のシェル美術賞入賞、リキテックスビエンナーレ入選などを通して全国区で着目され始めた現在24歳の新人である。今回CASHIで展示された作品の中では、とりわけ、《Across The Universe》 (2006) [fig.1] と《Birthday》 (2007) [fig.2] の構図と線描の美しさが際立っていた。デビュー2、3年を経て、彼特有の‘書き込み’がより密度を増し、同時にそれを包括するアウトラインがより美しく精緻なものとなることで、サガキの作品は飛躍的に洗練された。これにより、彼の描く「内側」に無造作に詰め込まれた日常的で雑多な書き込みと、それと外界を分断するアウトラインが示す性的な形状の、二つの世界のコントラストが際立ち、よりテーマ性を感じさせる作品となった。

    サガキの取り上げるテーマは、デビュー以来、射精あるいは受精の瞬間が意図的に描かれるなど、「生命の誕生」にちなんだものが多い。そのテーマを語るアウトラインの内側には、テーマとは一見対照的とも言える程に、世俗的で雑多な漫画風の精密画が、上下・左右関係なしにびっしりと詰め込まれている。まるでそれは、受精という遺伝子レベルあるいは記憶の交信では、この社会の物の優劣における常識は意味を成さない、という批判を秘めたかにも読み取られる。

    ビートルズの名曲を題した《Across The Universe》では、アウトラインが男性器と女性器の結合を模り、その各々の形状の内側には、ジョン・レノン、モナリザ、エジソンなどの歴史上の人物から、日常に溢れる風俗的なものをテーマとした描画が隙間なく詰め込まれている。描画の雑多さ、上下関係のなさは、奥行きのない平面配列と相まって、強烈な密度の濃さを感じさせている。まるで、男性の中にある記憶の断片が、分泌物として相手に吐き出されたかのような構図にも解釈できる。アウトラインの洗練さにやや未熟さが残るものの、強いテーマ性と比類ない個性をこの作品に見た。

fig.2 "Birthday" (2007), pen and paint on board, H162xW162cm|Copyright © 2007 Keita Sagaki / Courtesy of CASHI

    サガキは、ペン画を基本として精密画を描く。近年、その膨大な労力を厭わず大きなキャンバスにペンで精密画を描く若手作家が国内に次々と出ており、特筆すべき中には、同時期にミヅマアートギャラリーで個展が開かれていた、池田学などもいる。キャリアや世代の開きはあるが、池田とサガキは同様に、正確な下書きに頼らず、作家自身の意識に任せてキャンバスを埋め尽くしていく手法を取る。※1(サガキの場合はさらに、キャンバスの一角から全体を侵食するように書き進めていく。)また、書き込みが多いだけに、当然、モチーフの多様性という点でも共通している。しかしながら、二人の作品には興味深い相違点もある。

   池田の場合は、今回展示された大作《予兆》 (2008)を例に取り上げると、書き込まれたモチーフそれぞれにシーン/物語が設定され、複数の物語をキャンバスに同居させている。同時に全体の構図として、一つの世界を眺望する/俯瞰するというマクロ的視点を持たせることにより、時間的な同時性を維持している。

    一方、サガキの描く精密画は、時間にも場所にも上下関係あるいは前後関係がなく、全てのモチーフが雑多に押し込まれ、そこには、同じ時間に同じ世界に同居しているという事へのこだわりが感じられない。むしろ、非常に局所的で、かつ普遍的な世界を感じさせる。池田の作品の世界観がマクロ的であるならば、サガキの世界観はミクロ的と言えるのかもしれない。そして、この両者の違いの背景には、それぞれが帰属している時代性が反映されているのではないか。

    1984年生まれのサガキは、物心ついた頃にはPCが一般家庭にも普及し、インターネット社会が浸透していた時代に生まれ育った。情報が渦巻く社会では、情報間の国境や歴史性はもはや重視されず、全てが重なり合い、あるいは無造作に隣り合っている。その選択と優劣/後先の順序付けは、むしろ享受された者のみに託された責務である。彼らにとってこの世界は、必要な時に必要とする局所的な部分のみに注目するしかない、果てのない断片化したイメージに見えるのかもしれない。そこでは、1973年生まれの池田の属する世代が最後を垣間見たであろう、「世界の中の」あるいは「宇宙の中の」といった、全てに境界線が引けると信じられていた時代のマクロ的支配観は、もはや存在しない。

脚注
※1
片岡真実著「ディテールの時代:池田学の凝縮された宇宙」、池田学展カタログ、ミヅマアートギャラリー発行 2008年
最終更新 2016年 10月 09日
 

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