| EN |

河野通勢 展「河野通勢:大正の鬼才」
レビュー
執筆: 瀧口 美香   
公開日: 2008年 10月 14日

fig. 1 アダムとエバ(1914年)
© 2008 The Japan Association of Art Museums

fig. 2 キリスト誕生礼拝の図(1916年)
© 2008 The Japan Association of Art Museums

fig. 3 十字架上のキリスト(1918年)
© 2008 The Japan Association of Art Museums

fig. 4 ミケランジェロの模写(1914年)
© 2008 The Japan Association of Art Museums

    「楽園追放」という聖書の物語を表すために、通勢は故郷裾花川の風景を描いた[fig. 1]。伝統的なキリスト教絵画の「楽園追放」では、楽園の扉とか、炎の剣を持って扉を守るケルビムが描かれるのだが、通勢はそれらを描いていない。
    川が、前景と中景を分けるところに流れている。クロールで泳いでいる人が見えるが、下半身は蛇である。アダムとエバを誘惑した蛇は、二人が追放されるようすを見ながら、素知らぬ振りですいすいと泳ぎ抜けていく。この川は、パラダイスとその外とを分ける境界線でもある。
    草地をさまようアダムとエバのしぐさが気にかかる。アダムは顔を手で覆い、エバはうつむいて、二人の顔は見えない。二人はあたかも盲人が手探りで歩みをすすめるかのようによろめく。
    川を渡りきって向こう岸に足を踏み入れた途端、目の前が暗くなり、今まで見えていたパラダイスの風景がかき消された。突然の闇に、二人は思わず目を覆う。
    そう、パラダイスは光の中にあり、その外は闇である。しかしその闇(地上)に、再び光が到来する。それが、キリストの降誕である。キリストは自らを「世の光である」と語っている(ヨハネによる福音書8:12)。キリストの降誕とはすなわち、アダムとエバの犯した罪のために闇となったこの世に、再び光がもたらされることであり、裾花川を渡ったアダムとエバのしぐさは、キリスト到来まで続くことになる、この世の闇を暗示している。

    キリストの降誕を描く一枚であるが、ここでも通勢は伝統的なイコノグラフィーに従っていない[fig. 2]。なにしろ神の母である処女マリアがヌードなのだから。展覧会カタログは、聖書の物語というよりギリシア神話を想起させる、と解説している。なぜ通勢は宗教画であるはずのキリストの降誕を、神話画のように仕立てあげたのだろうか。
     葡萄の房とともに浮かぶクピドたちは、酒と豊穣の神バッカスの祭を思わせる。キリストを礼拝しに来た人々は、祭にやって来た人たちのように、陽気に歌い、騒ぎまわる。葡萄酒を浴びるように飲み、響宴に酔いしれて、ごろりと身を横たえる。
    ところがここに、どんでん返しが待ち構えている。宴の葡萄酒はすべて、この小さき幼子イエスの身体から流されることになる血なのだ。(聖餐式の中で「なんじのために流したまいし主イエス・キリストの血」という司祭のことばとともに信者は葡萄酒を口にする。)祭の騒ぎにかき消されて、ここに集う人々はそれに気づかない。しかしながら、祭の背後には、やがて十字架にかけられて血を流すことになるという、キリストの生涯を先取りするしるしが横たわっている。

    「キリスト誕生礼拝の図」において暗示されていたように、キリストは磔にされて血を流す[fig. 3]。それにしても、この十字架はものすごく高い。十字架の足元に集う人々が、はるか下の方に小さく描かれているので、5階だてのビルの屋上から下を見下ろしている感じがする。キリストは、このまますーっと垂直に、高く天へと上げられてしまうかのようである。通勢はなぜこんなに高い十字架を描いたのだろうか。
    貴婦人のような服装が天使にふさわしいかどうかはともかく、左側の天使はキリストの脇腹から流れる水を聖杯に受けている。一方、右側の天使はいったい何をしようとしているのか。(空中にいるのに)膝をついて、背中と足の裏をこちらに向けてうつむき、両手を差し上げている。キリストの腰布が小さな竜巻のように舞い上がるのも不自然である。

    通勢の素描の中に、その答えがあった。通勢は、ミケランジェロのフレスコ画を模写している[fig. 4]。ミケランジェロは、開いた本を掲げる巫女の姿を描いているが、通勢はこのポーズを借用したらしい。巫女を天使に置き換え、開いた本のかわりに、キリストの腰布をなびかせた。腰布の裾が、下からの風に吹き上げられるかのように舞い上がり、天使はぎこちない仕草でそれに触れる。なぜ通勢はわざわざこの天使をここに使ったのだろう。単にミケランジェロの真似をしたかったのだろうか。

    いや、これは単なる模倣ではない。ギリシア語のプネウマということばには、「風」という意味と、「息」という意味の両方がある。神はかつて、アダムを創造した時、アダムに息を吹き入れて彼にいのちを与えた。それと同じように、ここでも神の息吹(風)が、キリストの腰布を吹き上げている。十字架上のキリストに今、復活の息が吹き込まれた。天使はこうして神の息を運ぶ。不自然な腰布、高すぎる十字架、ぎこちない天使はみな、見えない神の息を可視化するための工夫であった。

    通勢は、「楽園追放」「降誕」「磔刑」といった聖書をめぐる物語の伝統的なイコノグラフィーを、自分のやり方で変えてしまった。通勢の作品は、一見正統な信仰の道を外れたもののように見えるかもしれない。しかしながらこうした意図的な逸脱は、聖書の物語の核心をかえって際立たせている。

* 図版出典 『大正の鬼才河野通勢展図録』美術館連絡協議会(2008年)


参照展覧会

展覧会名: 「河野通勢:大正の鬼才」 河野通勢 展
会期: 2008年6月3日~2008年7月21日
会場: 渋谷区立松涛美術館(東京)

最終更新 2011年 3月 09日
 

関連情報


| EN |