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東北、美術の現在—「肘折版現代湯治2009」を中心に
特集
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 12月 28日

fig. 1 旧郵便局舎 撮影:小金沢智

fig. 2 三瀬夏之介《肘折幻想》十曲一隻屏風、和紙・墨・胡粉、2009年 撮影:瀬野広美 画像提供:三瀬夏之介

fig. 3 三瀬夏之介《肘折幻想》2009年 撮影:瀬野広美 画像提供:三瀬夏之介fig. 2 三瀬夏之介《肘折幻想》十曲一隻屏風、和紙・墨・胡粉、2009年 撮影:瀬野広美 画像提供:三瀬夏之介

fig. 4 三瀬夏之介《肘折幻想》2009年 撮影:瀬野広美 画像提供:三瀬夏之介

fig. 5 三瀬夏之介による灯籠 撮影:小金沢智

fig. 6 望月梨絵、赤坂憲雄《肘折案内図・夏の蛇》2009年

fig. 7 東北芸術工科大学、三瀬夏之介研究室前 撮影:小金沢智

fig. 8  東北芸術工科大学、三瀬夏之介研究室前、「ご神体」 撮影:小金沢智

fig. 9 東北芸術工科大学、三瀬夏之介研究室内 撮影:小金沢智

1.

    「アートで町おこし」が盛んだ。代表的なところで、新潟県十日町市•津南町で三年毎に開催されている「越後妻有アートトリエンナーレ 大地の芸術祭」も、あるいはそれより規模は小さいが今年二回目を迎えた群馬県中之条町での「中之条ビエンナーレ」も、どちらも都会というよりは過疎の進む場所での開催であり、主催者側の目的として「町の活性化」があることはもはや言うまでもない。参加作家は美術館やギャラリースペースとは異なる場所での発表が制作の刺激になることはもちろんキャリアにもなり、客は「アート」だけではなくその「土地」自体を知り、楽しむことができるよう、作品自体がそういう仕掛けを含んでいることが多分にある。が、それらは基本的に「会期」のあるイベントであり、いずれ終わる。では美術の可能性として、限りある一時ではなく、継続的に町と関係を持つことはできないか。作品が恒久設置され、土地に残ることなどではない。そうではない形で町と美術の関係が持続されなければ、それは結局「アート」の流行り廃りや商業的な問題に帰着してしまう。美術はより深いところで人の〈生〉と関わることができないか。

2.

    山形県最上郡大蔵村を訪れた(2009年11月26日)。山形市内から車で約100分、アップダウンの激しい山中を自然の雄大さにまさしく圧倒されながら進むと、山と山の間にぽつりとその温泉郷はある。807年に開湯し、1200年もの歴史があるこの肘折温泉は、いわゆる観光地とはいささか雰囲気が異なる。肘折温泉があるのは月山なる山の麓だが、月山は湯殿山、羽黒山と並ぶ出羽三山の一つだ。したがって肘折温泉は山岳信仰と深い結びつきがあり、ここを訪れる人たちの目的はただ「観光」というよりは「湯治」、温泉の効用によって心身を癒すことにある方が多い。私が訪ねた時に見かけた湯治客のほとんどが年配の方々だったのはそのためだろう。自炊施設のある宿も多くあり、長期間安価で投宿できる設備が整っていることも湯治場ならではだ。

    その、肘折温泉で「肘折版現代湯治2009」(2009年10月4日〜11月29日)が開催された。山形市にある東北唯一の総合芸術大学、東北芸術工科大学が全面的に協力しているプロジェクトであり、期間中は作品の展示だけではなくアーティスト・イン・レジデンスやワークショップも行われた。村の至るところに作品があるわけでもなく、車がなければ行くことこそ難しいが着いてみれば十分徒歩で散策できるため、規模としては大きいものではない。出品作家も、太田三郎、三瀬夏之介、森繁哉+南山座、山崎和樹、松山隼、望月梨絵とわずか6名(組)に過ぎない。しかし、それゆえの密度の濃さが「肘折版現代湯治2009」の特徴だろう。レジデンスを例に出すまでもなく、出品作品はどれもが肘折に取材したものだ。

3.

    切手を用いた作品の制作で知られる太田の出品作品《朝市プロジェクト》(2009年)は、32種類にもなる絵葉書。肘折では毎朝民宿の軒先で朝市が行なわれているが、太田が目をつけたのはそこで売り買いされる地元の野菜、果物、漢方薬やちょっとした食べ物の類いである。太田は朝市を通して人から人へ渡るそれらを写真に撮り絵葉書にすることで、「手紙」というツールでの人から人への感情の移動を作品化した。絵葉書は毎朝6時から7時まで、他が野菜などを販売するのと同様軒先で売られているというから徹底している。が、会期中は旧郵便局舎でも販売されている。

    三瀬の作品が展示されているのも旧郵便局舎である[fig. 1]。明治時代に建てられたクラシックな佇まいの郵便局舎は、現在は役割を終えている。その中に置かれているのが、十曲からなる屏風、《肘折幻想》(十曲一隻屏風、和紙・墨・胡粉、2009年)[fig. 2]〜[fig. 4]だ。三瀬は制作に先立ち肘折を取材し、同地が活火山によって形成された場所であることに着目した。肘折温泉郷は「肘折カルデラ」と呼ばれる噴火跡地のただ中に位置しており、現地では綺麗にまるくえぐられた窪地を見ることができる。そうして三瀬は、水墨を基調にして山々やその爆発の光景を描き、鑑賞者をぐるりと囲むよう作品を展示することで、《肘折幻想》を今肘折にいる私たちの縮図とした。実際作品には現地ならではの光景が散逸する。肘折に向かうため山形市内から車窓を眺めていると、なだらかなまるい山々が連なっていることに気づくが、作品中の山も同様のかたちが多い。あるいは、山中には冬の雪の重みによってかたちが変型した木々が所々に根を下ろしているが、作中にも重力に反するかの、奇妙な立ち方をしている木が所々にある。さらには、今回私は取材時間の都合で見ることが適わなかったが、肘折には「地蔵倉」と呼ばれる現地では聖地と見なされている洞窟があり、それに倣ってか地蔵が数体描かれてもいる。火山の爆発という見方によっては悲劇的な場面が描かれているが、画面全体を通して花火の大輪が夥しい数描かれており、祝祭的な雰囲気も醸し出されている。なお会場には「ひじおりの灯」(2009年7月13日〜8月31日)に際して制作された灯籠も展示された[fig. 5]。

    残念ながら公演を見ることはできなかったが、舞踏家・森繁哉と森の家族によって構成されている舞踏団「南山座」による《南山座大道芸》も期間中二回行われた(10月25日、11月7日)。東北における舞踏と聞いたとき即座に思い出されるのは森の師である秋田県出身の舞踏家・土方巽である。写真家・細江英公による『鎌鼬』(1969年)は土方の写真集として伝説的な出来のものだが、その舞台が秋田県湯沢市であり、あれらの躍動的で、エロティックで、獣じみた写真のほとんどが即興的に生まれたものであることは改めて強調してもよいだろう。「東北」という磁場を考えたとき、「舞踏」もまたきわめて重要な問題を抱えているのである。山形県最上郡大蔵村出身である森が、まさしく地元で踊った踊りがどんなものだったのか、公演時に訪れることができなかったことが今さらながら悔やまれる。

    「肘折温泉逗留芸術家09’」として選出され、長期滞在しながら地元の風物をテーマに作品制作を行ったのは、東北芸術工科大学出身の松山隼と望月梨絵。松山の作品《よき絵画についての思索—肘》(2009年)は見ることができなかったが、滞在中複数の宿に滞在し、その部屋に絵画を残すプロジェクトを行ったという。望月は、同大学教授であり、同大学東北文化研究センター所長である民俗学者・赤坂憲雄のテクスト『肘折物語』に対して挿絵を作成。若干唐突ではあるが、村を歩いているとそのテクストと挿絵からなる看板《肘折案内図・夏の蛇》(2009年)が現れる[fig. 6]。「肘折物語のために」と始まりに書かれていることからも、その看板があくまで物語の導入であることがわかるだろう。しかし文章からは端的に肘折の歴史や民俗を知ることができ、望月による意匠的でエキゾチックな挿絵がそれらを効果的に彩っている。

4.

    参加はしていないものの、ワークショップにも一言言及しておく必要があるだろう。すべてチラシやウェブからの情報になるが、以下四つのワークショップはすべて「肘折」ゆかりのものだ。

    染色家である山崎和樹が行なったのは草木染めのワークショップ「ひじおり染め」(10月10日、11日)。肘折の周辺に自生する植物や古くから染料として使われてきたという染料植物から染料を抽出し、絹ハンカチを染めるもので、一泊二日で行なわれた。太田による「紙漉きアートワーク」(10月17日、18日)は、太田と参加者が肘折を探索し、採集したものを使ってオリジナルの葉書や紙のオブジェを作るワークショップである。森繁哉の「舞踏ワークショップ」(11月7日、8日)も、森による一泊二日の舞踏講座だ。三瀬による「肘折山水を描く」(11月21日〜23日)は、三瀬と参加者が肘折をトレッキングし、その取材を元に山水画を描く二泊三日のワークショップである。

    既にお気づきだろうが、通常美術館などで行なわれるワークショップが数時間の規模であることを考えれば、一部泊まり込みであるという点でも特筆される。「アーティストインレジデンス」ならぬ、「温泉逗留制作」とプレスリリースにはある。何かを徹底的に「学ぶ」としたら、一泊や二泊でも足りることはない。けれども、この密な日程で行なわれるワークショップが受講者の何らかのきっかけになることは十分に考えられるだろう。しかも驚くべきことに、これらすべての講座は受講料無料である。先に記したように、肘折はいわゆる「観光地」とはいささか性質が異なる。由緒ある温泉があり、自然の姿は今なお圧倒的で、所々に土地の歴史や民俗を忍ばせる場所がある。名物である蕎麦も美味しい。しかし、わかりやすいかたちでの娯楽があるわけではなく、アクセスも決してよくない。おそらく、だからこその地域の危機感は募っているはずだ。この受講料無料には、主催である「肘折地区(地方の元気再生事業~東北芸術工科大学との連携による地域と観光産業の活性化プロジェクト~)」の「人を呼ぶ」ことに対する切実で積極的な態度が見受けられる。

    一方で、聞くところによれば、「肘折版現代湯治2009」をきっかけに、地域住民の要望で東北芸術工科大学から肘折への出張授業も今後考えられているという。そのような授業を望む人々が美術における商業的、世俗的な成功を目的にしているとは考えにくい。肘折には美術館もギャラリーもないが、もの作りに対する欲求はあるということである。それはすなわち発表することだけが創作のモチベーションではないことを意味している。発表の機会を求めるならば、今回の出品作家の展示方法が一つの答えにもなっているだろう。

5.

    このように「肘折版現代湯治2009」は、小規模ながら密度の濃い催しとして、確かな成果をあげている。今回私が訪れたかぎりでは、集客という側面からの現地の盛り上がりは見ることができなかったが、平日であったことも原因だろうし、ワークショップなどのイベントがある時は多少違うのかもしれない。けれども訪れれば、作品や公演を楽しむだけではなく、温泉の愉しみに加え、土地の歴史や風土も知ることができただろう。強調しておきたいのは圧倒的なまでの自然の姿であり、厳しい自然の中での人の営みである。それらが「美術」(と呼ばれるもの)の有無とはまったく別のところで、確固としてあることを私たちは忘れてはならない。むしろそれらが先に存在しているからこそ、このようなアート・プロジェクトが成立するのだろう。その土地の歴史とともにあること。そう、それは「アートで町おこし」とは別の次元で、人を生かすことに繋がっている。

6.

    さて、運転ができない私を山形市内から肘折まで車で案内してくださり、山形ないし肘折の歴史や自然、民俗等について教えてくださったのが「肘折版現代湯治2009」の出品者である三瀬夏之介氏だ(以下敬称略)。奈良出身の三瀬が山形に移り住んだのは、東北芸術工科大学芸術学部美術科日本画コース准教授に着任した今年の春のこと。肘折の前日には同大学も案内してくださり、現地では充実した制作環境を知ることができ、学ぶところも多かった。簡単に取材内容を報告し、本稿を終えたい。

    まず研究室である[fig. 7][fig. 8]。大学から与えられている研究室の天井は5メートルの高さにもなり、上部には窓も備え付けられているから日中は自然光が入り込む。当日は正面にC・スクエアでの個展「問月台」で発表された《千歳》(和紙・墨・胡粉、300.0×365.0cm、2009年)が掛かっていたが、窮屈な印象はほとんど感じなかった[fig. 9]。※1 それは三瀬の作品が支持体のない紙そのものであることも大きな理由だが、ともあれ大作を制作しやすい環境である。ちなみに「千歳」(ちとせ)とは、山形にある山のこと。以前私は作品の形が立体的で、下部が鶴の形をしていることがタイトルの由来ではないかと書いたことがあるが、それは誤解であることをこの場で訂正したい。千歳山は山形市内から大学までの道すがら見え、実見すると、作品の形状が千歳山にきわめて忠実であることがよくわかる。作品同様千歳山もまた、稜線から頂上にかけてなだらかな曲線を描いているのである。鋭角的な印象の富士山とはまるで違う。そのため第一印象としてはかわいらしいが、朝もやがかかる様は実に神々しい。

    現在三瀬が主導となり企画しているプロジェクト、「東北画は可能か?」についてもここで紹介する必要がある。2009年11月9日、三瀬は学内で学生を対象に「東北画は可能か?」キックオフ・ミーティングを行い、以後ミーティングを重ねながら展覧会の実現を目指している。研究室前には三瀬曰く「ご神体」である煤けた神棚が鎮座しているが、果物やお菓子だけではなく、美大らしく写生用の花が供えられているから笑ってしまう。
    それはさておき「東北画」とは、三瀬が自ら記しているようにまず「日本画」への問題意識の賜物としてある。※2 明治期に作られた言葉であり概念である「日本画」と、京都市立芸術大学で日本画を専攻し、「新しい日本画」の描き手として頻繁に紹介され、現在も日本画コースの教員である三瀬との付き合いは長い。したがって「東北画」は山形に居を移した三瀬の、「日本画」への対抗馬のようなものである。だが、ここでの「東北画」を単純に狭義の「日本画」の拡張と見なしてはいけない。
    なぜなら三瀬の呼びかけに集まった学生には、日本画コースだけではなく、洋画や版画、総合美術のコースの学生も集まっているからだ。「日本画」の別称として「膠彩画」という言葉が使われることがあるが、「膠彩画」が「日本画」の画材を問題にしているからこその名称であることとは対照的に、「東北画」は画材による区別に留まらないボーダレスな絵画の磁場を実験的に作り上げてようと試みる。「東北」における「絵」であると考えればわかりやすいかもしれない。

    「東北画は可能か?」。今は誰もこの問いに答えることができないが、おそらくそれは「美術」におけるローカリティの問題を射程に定めつつ、「美術」だけではない問題も孕んでいく。同大に在籍している「東北学」の提唱者、赤坂憲雄の存在も見逃せない。そして、「東北」と聞いて私がまず思い出すのは、岡本太郎だ。死後になるが『岡本太郎の東北』(毎日新聞社、2002年)という書籍も出版されたように、岡本にとって「東北」は「日本」を考える上での重要な領域だった。その岡本が、山形出身の美術家・村上善男が上京を希望した折に語ったとされる言葉は示唆的である。「お前はそこで闘え!」。何も東京だけに「芸術」があるのではない。そもそも東北出身ではなく関西出身の三瀬が、ここ山形で「東北」を旗印にどのような「戦い」を見せるのか。だから私は、東京に住んでいるからと傍観するのではなく、自分の問題としても「東北画」について考え、その行き先を見届けたい。そこに、生々しい〈生〉がくっ付いているのではないかと期待するからである。

脚注
※1
三脚やロール紙などの移動をせず撮影をしてしまったが([fig. 9])、中央の壁面に掛けられているのが《千歳》である。作品の全貌は当サイト内「三瀬夏之介:問月台」レビューに画像があるため、興味のある方はそちらを参照されたい。今回の画像はあくまで研究室の風景としてここに提出する。参考:小金沢智「三瀬夏之介:問月台」レビュー[http://www.kalons.net/j/review/articles_1333.html
※2
「東北画は可能か?」は三瀬のウェブサイト、あるいは東北芸術工科大学図書館発行の『ライブラリー通信』に全文が掲載されている。[http://www.natsunosuke.com/iankaehaaikaah.html
『ライブラリー通信』、1頁、2009年10月1日発行、東北芸術工科大学図書館
最終更新 2015年 10月 28日
 

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