The whole and a part 2009 “collector/collection” |
特集 |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2009年 12月 31日 |
一つのテーマを軸に、一年の全体と部分を振り返る
1. The whole
2009年は「コレクター」の年だった。おそらく日本で最も著名な現代美術コレクター•髙橋龍太郎氏による「ネオテニー・ジャパン 高橋コレクション」が昨年から全国各地※1 を巡回し、日比谷にはコレクションルーム「高橋コレクション日比谷」がオープンした。「アートソムリエ」を自称するコレクター•山本冬彦氏はコレクション展が時折ギャラリーで開催されているが、今年は初となる著書『週末はギャラリーめぐり』(筑摩書房、2009年8月)を発売し、来年は佐藤美術館で「~サラリーマンコレクター30年の軌跡~ 山本冬彦コレクション展」(2010年1月14日〜2月21日)が開催予定である。以上の二氏が東日本の作家のコレクションを中心にしているコレクターとすれば、西日本の作家を中心にしたコレクションで知られるのが田中恒子氏だ。和歌山県立近代美術館では「自宅から美術館へ田中恒子コレクション展」(2009年9月8日〜11月8日)が開催され、コレクションのすべてが同館に寄贈されたという点でも非常に注目される。 現代美術に限らず、美術の歩みを考える際このような「コレクター」ないし「コレクション」の存在が非常に重要であることは言うまでもない。国立西洋美術館が実業家・松方幸次郎が戦前ヨーロッパで収集したコレクションを元にしているように、今年リニューアルした山種美術館は山﨑種二、根津美術館は根津嘉一郎とそれぞれ個人コレクションが元になっている。ただ、このように一度個人の手に渡った作品が公共の財産として美術館で公開されることは非常に喜ばしいが、そのことと当のコレクションが目指す方向性を美術史的に無条件に受け入れることは別であるということは、既に指摘したとおりである。経済状況から予算の減少が予想される美術館が、今後個人コレクションに期待するところは大だろう。歴史的に個人からの寄贈や寄託が美術館の貴重な収蔵品増加に貢献していることを考えれば、これは今さら特筆すべきことではないかもしれない。ただ、公立であれ市立であれ美術館がパブリックな空間である以上、基本的にプライベートな行為の産物であるコレクションが公的にどのような意味を持つか、私たちはその度毎に考える必要がある。 「コレクター」という視点から私が今年 最も感銘を受けた展覧会は広島市現代美術館で行なわれた「コレクション展3 高松次郎 コレクション in Hiroshima 点、線、不在のかたち」(2009年2月14日〜5月24日)である。同館のコレクションに加え、広島の大和プレスのコレクションが中心となり構成された高松次郎展はその作品量たるや凄まじく、非常に見応えがあった。大和プレスと言えば現代美術コレクションに加え、所蔵作品展図録『VIEWING ROOM』シリーズの刊行でも知られるが、今年は所蔵する高松の約4000点ものドローイングを掲載した書籍『Jiro Takamatsu: All Drawings』※2[fig. 1][fig. 2]の刊行にも至っている。引き続き活動を注目したいコレクションである。 一方で、「コレクション」できない作品も存在する。東信の作品は、そのアートワークのほとんどが植物を用いているという点で恒久的な「コレクション」の対象から外れるものだ。そしてその東こそ、今年私が最も活動を注視した作家にほかならない。 2009 年3月に二年間限定のプライベートギャラリー・AMPGが閉じられてから、東の作品発表の場がどうなるのか少なからず懸念したが、振り返ってみればまったく杞憂だった。東は個展だけでも「AMPG vol.25」(三菱地所アルティアム)、「Distortion×Flowers」(EYE OF GYRE)、「adidas Plants Exhibition」(adidas Plantsハウス)、「hand vase」(CLEAR GALLERY)、「Bridge of Plants」(アークヒルズ アーク・カラヤン広場)と計五回行い、他にも「TOKYO FIBER 09 SENSEWARE」(トリエンナーレ美術館)や「森山大道「記録」on the road collaboration with 8 creators」(epSITE)などに出展し精力的な発表を行なった。大竹伸朗による直島銭湯「I♥湯」の植栽も2009年の重要なトピックである。 AMPG終了後の予定としてインタビュー中でも語っていたAMGG(AZUMA MAKOTO GUERRILLA GALLERY)は結局行なわれなかったが、多忙を考えれば致し方ない。 その中でも、インスタレーションを発表しつつも基本的に写真展で あった「Distortion×Flowers」、森山大道の写真に「FUCK OFF」と書きなぐった作品を出展した「森山大道「記録」on the road collaboration with 8 creators」、そして自身の手を象った陶器を百点並べた「hand vase」は、それまでの東の作品が植物を素材にしているからこその一過性を突き詰めた作品であることを考えれば、変化しない写真や陶器という点で異例である。冒頭に東の作品は「コレクション」できないと書いたが、これらの作品に限って言えばコレクションの対象になる。勅使河原蒼風や中川幸夫といったいけばな作家にも写真やオブジェの作品があるが、今後東が植物のアートワークと平行してこのような作品も発表していくのかは注目すべきところだろう。 今年は展示以外でも、ロックバンドのPsysaliaPsysalisPsycheから依頼を受け制作したミュージック・ヴィデオ(「Midunburi」、「Titan arum」[fig. 3])や、アルバム「Matin Brun」のアートワークも忘れがたい。とりわけ、舞踏集団・山海塾のメンバーである浅井信好が踊っている「Titan arum」のヴィデオは官能的な美しさに満ちた秀作である。東によれば浅井の舞踏は花がモチーフになっているとのこと。そこで思い出したのは、舞踏家・大野一雄と華道家・中川幸夫のコラボレーション、2002年の大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ2003プレイベント、「花狂い」である。私は現場を訪れておらず、ヴィデオしか見ていないが、天空から降り落ちるチューリップとその中で舞う大野の姿は私の記憶に強く残っている。今一度花と舞踏の関係を考えてみたくなる。 暫定的に仮定すれば、花と舞踏のどちらにも共通するのは、一定のかたちに留まらないことだ。すなわちそれらは時間とともにある。生まれ、生き、死ぬ。花にそれらの過程があるのはもちろんのこと、舞踏にも限られた時間の中でのそれがある。だから、舞踏は花を志向するのではないか。どちらも「コレクション」できないが、だからこそ忘れがたいものとして記憶に留まり続ける。東の作品もまた、そういうものとしてあった。 脚註
|
最終更新 2015年 10月 28日 |